海外在住の友人から、共通の知人についての消息を知らないか、と言う照会を受けたというのは先日ここに書いた。共通の知人と言うのは、年齢的には自分よりかなり上の人達であり、すでに第一線を引退している人ばかり。今、いろいろとつてを辿って消息を知ろうとしている。こういうきっかけでもないとなかなか腰を上げないもの。これまでのところ半分くらいの消息が分かった(名誉職的な今の地位、など)。しかし、うち一人は昨年初めに既に他界していることが判明。90歳を超えていたというから、大変な高齢だった。他の人のことはさておき、まずそのことだけを件の友人に連絡。
折り返し返事が来て、大変驚いた、しかし、5年ほど前に訪日した際、多摩湖のほとりにある彼の家に挨拶に伺ったことがる。その時も体調がすぐれないということで、ソファに横になりながらも随分長い時間話をした。悲しい話だが、まだ存命のうちに会えたのがせめてもの救いだ、と。
この方は戦後間もないころから海外との仕事をしてきて、昭和30年代にはロンドンにもしばらく駐在していたと聞いていた。自分も3年ほど前、ある人の著作に彼の名前を出すことについて、了解を取るために頼まれて彼に電話をしたことがあった。先方はこちらの名前を名乗ったら微かに記憶にあったようだった。しばらくの沈黙の後に思い出したようで、自分は高齢でもあり、特段異存はないから君にお任せする、と言う話になって恐縮した。高齢で体調もあまり良くないので、といつになく遠慮気味だったがはっきりした受け答えだったので、そんなに早く亡くなるとは思ってもいなかった。
彼は大先輩だったから、在職していた当時は簡単に話が出来るような関係ではなかった。しかし、退職してずいぶん時間が経つとそういった遠慮も次第になくなって割と気軽に話が出来るようになった。彼は革命や内戦などいわゆる複雑な政治情勢の国に強い人物として知られ、一度、当時はまだ分裂していなかったユーゴスラビアに出張する時に話を聞きに行ったことがあった。政治情勢や人脈などの話だったと思うが、その時の彼の表情などは思い出せない。
その後何度かユーゴスラビアに出張した。最後の頃は内戦下で社会が混乱しており、ベオグラードでは一流と言われていたホテルでも頻繁に停電があった。その薄暗い売店で買った、色鮮やかな陶器に入った地酒。45度とあるのはアルコール度だろうか。飲まずにそのまま本棚の中で眠っていた。ユーゴスラビアはもうない。それにまつわる人もいなくなってしまった。まだ調べなければならない人が何人か残っている。皆元気で無事でいてくれたら、と思う。亡くなっていた、というような連絡をするのは出来れば避けたい。