回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

地図

2021年01月12日 15時20分01秒 | 日記

子供たちの通学風景が戻ってきて冬休みが終わったのを見て、自分が子供の頃の冬休みの自由研究として住んでいた地域の地図を手書きで描いて出したことがあったことを思い出した。いくつかの地図を見ながら自分なりに編集(?)して作った地図、果たしてどういう評価を受けたのかは記憶にない。今なら、地図などどこででも手に入ると思うが、半世紀ほど前、まだグーグルマップのような便利なものはなかったし地図があっても誰でも簡単にコピーの出来る時代ではなかったから、自分で書いてみようなどと無謀なことを思ったのかもしれない。もっとも子供の作った地図だからどの程度正確だったのか・・・

子供の頃地図を見るのが好きだった。家にあった、それほど大きくはない固い表紙の地図は何時間見ていても飽きなかった。それぞれの国が色が違っていて子供にも国境線がわかるようになっていた。そのうちに、色とその国が何か関連があるように見えてきた。それが嵩じて親に地球儀をねだりとうとう買ってもらった時の嬉しさは今でもよく覚えている。

その小さな地球儀はいつの間にかどこかに行ってしまって今はもうないが、ヨーロッパが紫色、アメリカ大陸が緑色と言った色による区分けがあったのは地図と同じ。地図から国名と国旗、それに首都の都市名を覚えるのが大きな楽しみだったように思う。小学年の高学年になるとそういった知識の豊富な級友がいて彼が何人かの級友の輪の中でそれを自慢しているようなところがあったが、こちらにはそれ程の自信はなかったので少し距離を置いて黙って聞いていた。今思えばどこかにライバル意識と言うか競争意識のようなものもあったのだと思う。

こんなに夢中だった地図への興味も中学に入ってからは急速に薄らいでいった。それがまたぶり返してきたのは、仕事でヨーロッパに駐在することになり、さらには出張でヨーロッパ諸国を回って初めて国境線の持つ重さ、厳しさ、歴史と言ったものを肌で感じた時のことだった。地図上の国境線はその時の歴史の産物であって未来永劫に普遍なものではないことも痛感した。たとえば最初に欧州にいた時にはドイツは東西に分かれていた(ベルリンも東西に分割されていた)し、逆にチェコとスロバキアは一つの国だった。かつて非同盟の旗手ともいわれた、チトー率いるユーゴスラビアに至ってはその後7つの共和国に分裂して次々に新しい国境が出来てしまった。たまたまだが1985年に買ったブリタニカ百科事典に付属していた地図には、その当時の国境線が引かれている。今見れば消えてしまった国境線もあれば新しく引かれた国境線もある。地図を見ていると国の運命やそれによって翻弄された人々の姿が目に浮かんでくる。現に今この時点だって国境線を巡って争いが絶えない。それは何も戦争だけとは限らず、国家間の紛争の種になっている例はいくらでもある。

まだ東西冷戦の時代、当時の共産国に出張した時には、間違ってもその国の地図を買おうとしたり、ましてや持ち帰ったりしてはいけない。スパイとして見られて大変な事になるときつく言われたものだ。当時、地図は軍事上あるいは治安機関にとって最も敏感なものの一つだったのだろう。今でもそういう国や場所はあると思うが。そんな時にルーマニアに出張して、他に記念になるようなものも無かったのでホテルで買ったのが1717年ライプチヒで発行されたというブカレストの街を描いた木版画。ただ、地図について何度も言われたことが頭にあったのでこれを買った時には、冗談半分に知り合いのルーマニア政府関係者に何か問題ないかと確認したものだ。普通に考えればこんな古い時代を描いた版画が何か軍事上の機密を含んでいるとは思えなかったが。今は一つの風景画として額縁の中に納まっている。手前の方に小さく描かれている5人が兵士なのか農夫なのかは判らない。

コメント (2)
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