回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

先輩

2020年05月26日 09時46分59秒 | 日記

先輩という言葉は軽い。軽いせいなのか色々な局面で使われる。時にはいささか揶揄するようなニュアンスも。しかし、目の前の巨木のように映る先輩もいる。こういう場合、むしろ、先輩という言葉を使わないほうがいいのかもしれない。しかし、先日亡くなったJR東日本の元社長・会長の松田昌士氏は自分にとって巨木のような先輩だった。

松田氏は同じ高校、そして大学ともに先輩だ。年齢は相当離れているから、在学中には全く接点はなかった。大学も同じ法学部だったとはいえ、仕事では全く異なった分野だったので、仕事上のかかわりもなかった。松田氏は国営企業であった国鉄、こちらは専ら海外ばかりを彷徨う仕事だったので。高校については、松田氏が、昭和29年旧校舎から自分の机と椅子をリヤカーに乗せて移転先の新校舎までの数キロの道を運んだという同窓会の記事を読んだことがあった。また、この高校の創立110周年記念誌に、松田氏はJR東日本顧問として寄稿している。このなかで、この高校に入学したいきさつなどを述べたのち、最後を「北海道の思い出は尽きない。私は道産子であることを誇りに思っている」と結んでいる。

まだ、戦後の混乱と困窮が続いているときに、松田氏は希望に満ちた3年間を送ったわけだ。そして、その彼が移った新築の校舎の、最後の卒業生が自分だ。というのは、この校舎は、自分が卒業したその直後の3月に放火によって焼け落ちてしまったから。彼が胸弾ませてくぐった新築の校舎は、自分が通学していた時分にはもういささかくたびれてしまっていた。しかし、それでも彼の過ごした同じ建物で、自分も人並み?に多感な3年間を過ごしたのだと思うと何か共通のものを感じてなつかしさのようなものがこみ上げてくる。この高校の同窓会の幹事は卒業年次によって順送りされているが、自分の卒業年が当番年次だった時幹事の一人として、当時JR東日本の社長を務めていた松田氏に何かの会合で会った記憶がある。もっともその年の6月に自分はニューヨークに転勤になり、結局同窓会には出席できなかったのだが。

あの中世代の恐竜のような、労組に絡み取られて、あるいは一緒に腐敗していた旧国鉄を本社から満身創痍になりながら改革を断行、民間企業として成功させた松田氏の功績はとてつもなく大きい。伏魔殿と呼ぶにふさわしいような旧国鉄の経営陣の中では決して本流ではない学歴ながら、実力で頂点まで上り詰めた。

こんな時に後輩としてなにか書くというのはおこがましく、また気が引ける。ただ同じ楡の木の下で3年間を過ごし、青春を共有できたことは自分のひそかな誇りであるし、もう松田氏の姿を観ることも声を聴くこともできないと思うと寂しい。

この高校と大学とは1キロも離れていなかったので、毎年多くの卒業生が進学していた。通学経路もほとんど変わらずまた、知った顔も多かった。それは多分、松田氏も自分も同じだったと思う。高校と大学の間には大学の農場が広がっていて道路との境界にはライラックが植えてある。今がちょうど満開。赤紫色と純白の花からは甘い香りが漂ってくる。

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空港

2020年05月25日 05時36分56秒 | 日記

前夜遅くに胃潰瘍で大量出血し、緊急手術を受けて都内の大学病院のICUで治療を受けている親族を見舞うために、昨日、家人を千歳空港まで送っていった。外出自粛がまだ解除されていないので、移動人数を最小限にしようということで今回自分は北海道に残った。午前7時55分発の始発便に乗ろうと、高速道路を飛ばしたのだが間に合わず、今はキャンセル便が続出してJALの場合、羽田行きは次が9時55分なので止む無くそのまま2時間空港で待つことになってしまった。空港では駐車場からカウンターまで誰一人として会う人はいない、日曜日の朝とはいえ、これまでであれば考えられない無人の空港。あたかも、何年も放置された空き家か遺跡にでも入った気分で、結局、2-3人の乗客と空港職員、警備員の姿が見えるのみだった。外出自粛とは言うものの、そこに見える風景は、戒厳令でも敷かれた時のようなものだった。

そもそも戒厳令などというのは極めて異常な状態である。これまで、一度だけ戒厳令下の国を訪れたことがある。1980年代ポーランドではレフ・ヴァウェンサ(日本ではレフ・ワレサと呼ばれることが多い)率いる「連帯」運動によって民主化の動きが強まり、他の東欧諸国への波及を恐れ、それを抑え込むために当時のソ連が軍事介入しようとした。その介入を防ぐために(実質的に対抗するため)、当時の首相、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが1981年12月13日にポーランド全土に戒厳令を敷いて独裁権限を掌握した。ちょうどその時分、累積債務問題で西側債権者団の一員として特別に許可を受けてワルシャワに入ったことがある。戒厳令下ということで市内の各所に軍隊が展開していた。我々は指定された、西側の常識に比べれば質素なホテルに滞在して連日相手方(当時のワルシャワ商業銀行)と返済条件に付いて長時間交渉をした。

戒厳令下で夜間外出禁止令が出ており、午後8時だったか9時だったかは忘れたが、それ以降は決して外出できない。もし外出でもして見つかれば、最悪その場で兵士に射殺されてもしかたのないということ。そのため、少し余裕をみて会議を終えホテルに急いだ。日が短くなっていた季節のことであり、すでに暗くなった人っ子一人見当たらない街を同僚とホテルに急いでいると歩哨に立っている若い兵士がこちらに向かってやってくる。何か問題でもあるのかと恐怖感が沸き上がってきた。銃剣を帯びた兵士は1メートルくらいまで近づいて正面に立つと、何も言わずに、指2本を口元にもっていって、たばこを吸う仕草をする。同僚が持っていたマールボロのひと箱を差し出すとさっと受け取ってそのまま踵を返して遠ざかっていった。多分東洋人を観たので念のため確認に行ったが問題はないとでも上官に報告したのだろうか。当時東欧諸国では西側のたばこ特にマールボロは人気があり、お土産によく持って行った物だったから、たばこをやり取りするというのは、特に異常なことではなかった。

空港がこんな閑散としていては、いくら自粛が解除となっても以前のような賑わいや雑踏が戻ってくるのには相当な時間がかかるだろう。そもそも、生活や仕事の形が変わってしまった今、同じように風景を再び観ることはないのではないかとさえ思われた。

見送りを終えてガランとした駐車場に戻ろうとしたとき、ワルシャワの街に展開していた装甲車からかすかに漂ってくる火薬と鉄、それに重油のにおいがふっと蘇ってきたような気がした。あの時も車の姿はほとんどなかった。

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続編

2020年05月24日 10時13分32秒 | 日記

「ナナ」は「居酒屋」の続編で、エミール・ゾラの最高傑作と言われている。たしかに、「居酒屋」の悲惨な庶民の生活よりは「ナナ」の、虚飾に満ちているとはいえ、上流階級を舞台にした劇的な展開は読者を魅了するものがある。一方、「オペラ座の怪人」の続編である「Love never dies」は「オペラ座の怪人」がアンドリュー・ロイド・ウェバーの最高傑作と言われているのに対して必ずしも大成功とはいえない。成功体験や一度味わった楽しみの続きを夢見るというのは人間として尤もなことである。そして商業的には「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」のもよくわかる。一度成功を収めた人や物事に準じて後釜になろうとすること、あるいは既存のものを真似して作られたものなど、安易かもしれないが、堅実に見えて魅力的な戦略だ。ただ、「柳の下の二匹目のドジョウを狙う」とはもともとは「柳の下にいつもドジョウはいない」から派生した警句であり、おなじように「柳の下にいつもドジョウはいない」とは、一度成功を収めたからといって、再び同じようにうまくいくとは限らないということを意味している。 

何事にも連続性があるわけだから、その後どうなったか、知りたいという気持ちがあるのは当然。作ろうと思えばいくらでも続編は作れるだろう。たとえば、イラン映画「別離」のあの一家のその後、など。しかし人生は一回しかない、死んでしまえば、まさに一巻の終わり、ということになる。人生に続編はないということで、まさに「一巻の終わり」、死ねば物事の全てが終わる、物事の結末がついて先の望みは全くないことになる。その奔放さと抗いがたい魅力で上流階級の男を次々に破産させ、最後には病気で悲惨な最期を遂げるナナは、悲劇で終わる続編の宿命を象徴しているように思える。

人生に続編がないように草花にも続編はない。ただ一回の命を生ききるのみである。

庭のつつじがやっと見頃に。

 

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イラン映画「別離」を観て

2020年05月23日 09時11分31秒 | 日記

別離、というとただ悲しいという語感があるのだが、場合によっては別離そのものよりもそれに至るまでの人間心理、あるいはそれをとりまく人間関係のほうが興味をひくものだ。映画は見終わった後にどんな感覚が残るかが重要。10年前に公開されたものを最近になって見たのだが、イラン映画「別離」は、映画にどういう終わり方があるか考えさせる点で十分成功したと思う(多くの映画祭での数々の受賞を考えれば当然かもしれないが)。

現代のイラン、銀行員の夫と教師の妻が、一人娘の将来について国外移住をめぐって対立、移住を主張する妻と、父親の介護もあってイランに残ることを希望する夫、究極の解決方法とし離婚を考えるが、聡明な娘は両親の間で揺れる。夫に抗議して家を出た妻、その不在の間に雇った臨時の家政婦の流産で夫に傷害致死の嫌疑がかけられ、家政婦の乱暴な夫が登場するという緊迫した状況、やっとその解決に目途がついて本題の離婚での娘の意向を確認する段になる。両親のどちらかにつくことを決めた娘だが、映画ではその決断は描かれずに、それを待つ離婚裁判所での夫婦の姿を映して終わる。

それぞれの思惑で対立する両親のうちのどちらかの選択を迫られる11歳の娘が長い苦しい逡巡のあと、下す結論とは?見る観客に、娘がどちらを選択したのか、想像に任せるものだ。任せられた観客としては、映画監督にここまで引っ張っておいてそれはないだろう無責任だ、と思うか、あるいは、こういう作りの映画もあってよいし、ここまでの話を丁寧に作り上げていることを評価するかもしれない。映画だから、結末(選択)をはっきりと示して、それへの賛否を問うということもありうるだろう。ただ、こんな重い選択を11歳の少女に迫るのである。どんな選択をしようと、それを責めることはできないだろうし、それを避けるためには、このように彼女の口から言わせることをぎりぎりで回避させたということで、観るほうはむしろ救われるのではないか。

エンドロールがペルシア語で表示され、まったく理解することができなかったが、この遮断されたような感覚を持つこともこの作品の一つの特色であり、これがイラン映画だということを改めて納得させられる。

イランの国花である薔薇の写真を添えて。

 

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林檎の花

2020年05月22日 08時34分25秒 | 日記

林檎の花が今年も咲き始めた。蕾の時は先端がわずかに赤みを帯びているのだが開くとほぼ純白になる。花の期間は短く満開になるとすぐに桜の花びらのように散ってしまう。

林檎は人間にとって最も歴史がある果物といってもいい。聖書では禁断の果実としてアダムとイブが楽園を追われたのにもこの林檎がかかわっているくらいだから、創世記から存在したことになる。時代が下って、弓の名手として、あるいは父子の信頼の象徴として、ウイリアム・テルによる息子の頭上の林檎を射抜く伝説は有名だし、近代物理学の基礎を築いた知の巨人アイザック・ニュートンは林檎が木から落ちることから万有引力の法則のヒントを受けたという逸話もある。さらに、ビートルズのレコードレーベルは一時期アップルだったし、現在では、世界の株式時価総額の首位を争うIT企業の社名であり、スマートフォンに至っては、特に日本ではそのシェアが5割を超えるという、すなわち日本のスマートフォンの半数が林檎の形をロゴにしている。また、ビッグアップル、といえばニューヨークのことだ。

林檎は持ち運びが楽なうえに栄養もあり美味、皮も残さず食べられる(種はさすがに食べられないが)し果汁が漏れる心配ない。1980年代初め不況下のイギリスにいた時には多くの英国人社員は昼食にラップで包んだサンドイッチ一切れに林檎を一つ持ってきていた。質素というのか合理的というのか、あるいは節約せざるを得なかったのかそのいずれかだろうが、時々それにポテトチップスが一袋ついていた。ひげ面の大柄な男から、金髪のまだ頬が林檎のように赤い少女のような社員まで、それぞれがイギリスで一般的だった青い林檎をかじっている光景は、すっかり豊かになった今ではもう見られないだろう。

林檎は比較的寒冷地で栽培されていて北海道も主要な産地だ。ただ、「津軽のふるさと」では、「りんごのふるさとは北国の果て」とうたわれる。津軽が北国の果て、と言われてしまうと一体北海道はどうなってしまうのか、とも思うが・・。今年の北海道はいささか天候不順というかこの時期になってもまだ肌寒い日がたまにある。

そうかといえば、林檎の花が旅を渇望させる暖かさの象徴として歌われたものもある。

何処かに行きたい、林檎の花が咲いてる暖かい処なら、何処へでも行く (村下孝蔵 踊り子)

そろそろ散り始めた庭の林檎の花

 

 

 

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