先輩という言葉は軽い。軽いせいなのか色々な局面で使われる。時にはいささか揶揄するようなニュアンスも。しかし、目の前の巨木のように映る先輩もいる。こういう場合、むしろ、先輩という言葉を使わないほうがいいのかもしれない。しかし、先日亡くなったJR東日本の元社長・会長の松田昌士氏は自分にとって巨木のような先輩だった。
松田氏は同じ高校、そして大学ともに先輩だ。年齢は相当離れているから、在学中には全く接点はなかった。大学も同じ法学部だったとはいえ、仕事では全く異なった分野だったので、仕事上のかかわりもなかった。松田氏は国営企業であった国鉄、こちらは専ら海外ばかりを彷徨う仕事だったので。高校については、松田氏が、昭和29年旧校舎から自分の机と椅子をリヤカーに乗せて移転先の新校舎までの数キロの道を運んだという同窓会の記事を読んだことがあった。また、この高校の創立110周年記念誌に、松田氏はJR東日本顧問として寄稿している。このなかで、この高校に入学したいきさつなどを述べたのち、最後を「北海道の思い出は尽きない。私は道産子であることを誇りに思っている」と結んでいる。
まだ、戦後の混乱と困窮が続いているときに、松田氏は希望に満ちた3年間を送ったわけだ。そして、その彼が移った新築の校舎の、最後の卒業生が自分だ。というのは、この校舎は、自分が卒業したその直後の3月に放火によって焼け落ちてしまったから。彼が胸弾ませてくぐった新築の校舎は、自分が通学していた時分にはもういささかくたびれてしまっていた。しかし、それでも彼の過ごした同じ建物で、自分も人並み?に多感な3年間を過ごしたのだと思うと何か共通のものを感じてなつかしさのようなものがこみ上げてくる。この高校の同窓会の幹事は卒業年次によって順送りされているが、自分の卒業年が当番年次だった時幹事の一人として、当時JR東日本の社長を務めていた松田氏に何かの会合で会った記憶がある。もっともその年の6月に自分はニューヨークに転勤になり、結局同窓会には出席できなかったのだが。
あの中世代の恐竜のような、労組に絡み取られて、あるいは一緒に腐敗していた旧国鉄を本社から満身創痍になりながら改革を断行、民間企業として成功させた松田氏の功績はとてつもなく大きい。伏魔殿と呼ぶにふさわしいような旧国鉄の経営陣の中では決して本流ではない学歴ながら、実力で頂点まで上り詰めた。
こんな時に後輩としてなにか書くというのはおこがましく、また気が引ける。ただ同じ楡の木の下で3年間を過ごし、青春を共有できたことは自分のひそかな誇りであるし、もう松田氏の姿を観ることも声を聴くこともできないと思うと寂しい。
この高校と大学とは1キロも離れていなかったので、毎年多くの卒業生が進学していた。通学経路もほとんど変わらずまた、知った顔も多かった。それは多分、松田氏も自分も同じだったと思う。高校と大学の間には大学の農場が広がっていて道路との境界にはライラックが植えてある。今がちょうど満開。赤紫色と純白の花からは甘い香りが漂ってくる。