調べるということは、「わからないことがあるということを知る」ことです。相変わらず、自分の家のいわれを知りたい、何処そこに残る昔話を知りたい、いや「調べている」というような話を持ち込む人が多い。
世の中の大方の人たちは 自分が求めることは 自動的に(お金さえ、それもゴク安く、払えば)出てくるものと思っている、古本屋はそれを当然「してくれる」商売だと、確信しているようである。 しかし現実は甘くない。
地方の一の伝承など「本」になりようが無いではないか。 「本」にしたところで誰が買うか、そもそもせいぜい数ページの報告くらいなので、どこかの「地方史研究雑誌」の一項目位でしかない。それを探しだしては如何ですか? と進言しても通じない。それはどこ(店の中の)にあるか?今すぐ知りたい というような反応でお手上げという事例が・・、多すぎる!
司馬遼太郎、松本清張、古くは大仏次郎、長谷川伸など 作品のために膨大な資料を集めていた人のことを 知識としては知っていながら 其の「愛読者」と言う人が イザ自分が調べたいことに「努力」しようとしないのか 誠に不思議。
我が店は高々8坪強の小さな店であって頭をめぐらせば一目全体がわかる。其の店頭にたって 「・・の本はあるかね」「歴史関係はどこかね、分類はどうしてある」と 店に入ってくるなり本を見もせず、のたまう人が多い。 我が店としては対応に困って物が言えない。たとえば「佛教美術」という本があって、それを「佛教」に入れるか「美術」に入れるかは 其の店の個性だ。
食べ物やだって「ラーメン屋」「すし屋」「天麩羅や」それぞれあるのにどうして古本屋が「何でもあなたのご希望どうり」という店たらねばならないのか ズット考えているが わからない。 知らない店に入ったらまず「メニュー」を見て其の店の様子を判断するだろう。トンカツやに行ってチャンポンを注文するのは、それとわからせなかった店のお責任だろうか、それとも気が付かなかったお客の責任だろうか。 いくら田舎の店とはいえ モウ少し まともなお客様の来店を 切に願うものです。
世の中の大方の人たちは 自分が求めることは 自動的に(お金さえ、それもゴク安く、払えば)出てくるものと思っている、古本屋はそれを当然「してくれる」商売だと、確信しているようである。 しかし現実は甘くない。
地方の一の伝承など「本」になりようが無いではないか。 「本」にしたところで誰が買うか、そもそもせいぜい数ページの報告くらいなので、どこかの「地方史研究雑誌」の一項目位でしかない。それを探しだしては如何ですか? と進言しても通じない。それはどこ(店の中の)にあるか?今すぐ知りたい というような反応でお手上げという事例が・・、多すぎる!
司馬遼太郎、松本清張、古くは大仏次郎、長谷川伸など 作品のために膨大な資料を集めていた人のことを 知識としては知っていながら 其の「愛読者」と言う人が イザ自分が調べたいことに「努力」しようとしないのか 誠に不思議。
我が店は高々8坪強の小さな店であって頭をめぐらせば一目全体がわかる。其の店頭にたって 「・・の本はあるかね」「歴史関係はどこかね、分類はどうしてある」と 店に入ってくるなり本を見もせず、のたまう人が多い。 我が店としては対応に困って物が言えない。たとえば「佛教美術」という本があって、それを「佛教」に入れるか「美術」に入れるかは 其の店の個性だ。
食べ物やだって「ラーメン屋」「すし屋」「天麩羅や」それぞれあるのにどうして古本屋が「何でもあなたのご希望どうり」という店たらねばならないのか ズット考えているが わからない。 知らない店に入ったらまず「メニュー」を見て其の店の様子を判断するだろう。トンカツやに行ってチャンポンを注文するのは、それとわからせなかった店のお責任だろうか、それとも気が付かなかったお客の責任だろうか。 いくら田舎の店とはいえ モウ少し まともなお客様の来店を 切に願うものです。