「柳河藩の政治と社会:白石直樹:柳河の歴史5」を読んだ。3年前に出ていたのだが 他に関心があってすぐには読まなかった。大変おもしろく読んだのだが白石氏の資料漁渉の範囲の広さと徹底ぶりに敬意を表する。職務で、あるいはこの本を書くについて当たり前の仕事といえばそれまでだけれども、資料や根拠のはっきりしない、あるいは不十分な「話題作」が横行しているので「さすが」の仕事と思った次第。 本人も幾重にも断っているが、士分、あるいはそれに連なることについては資料が一応あるが、町衆・村方の生活の記録は少なく、どんな日常だったのかが今一つはっきりしない。著者がその点を「言い訳」をしているのはかなり前から小生が「庶民の生活を詳らかにしなければ本当の市史にはならない」と白石氏を含む市史編纂室に云い続けてきたのが少しは影響しているかなあと・・。
士分中心ではあっても人別調べや家人の雇用などから士分ではない人のことがうかがえる。中で「浪人」が思ったより多く、またその連中がそれなりに生活しているのが面白い。特に「小口金融」で稼いでいるのがいるとは驚いた。「銀九・郵貯」のない時代だから庶民には「貯蓄」の観念は薄くせいぜい小粒やビタ銭を巾着にためるくらい、のちの「タンス預金」だが 江戸時代の庶民で箪笥を持っているのはごく少数の商人くらいのもの。小説では浪人といえば傘貼り、寺子屋、用心棒などは出てくるけれど「金貸し」というのは知らなかった。
度々の飢饉はよく知られているが藩の財政のひどいことにあきれてしまう。今の日本の国債も似たものだが、いずれマネをして侍風を吹かせてごまかすつもりが見えていやらしい、日本もそのうち法律を変えるか庶民の負担を増やすかでごまかすのだろう。
中に「柳河明証会絵」を使って町の様子を説明してある。その挿絵を見ていて気付いたことがあった。それは「橋」。以前から江戸時代には橋はきつく制限されていて城下・寺社などの線引き内でしかなかったことを言い続けているが、ここのもいわゆる城内であることは確認できた。新たに起こった疑問は「反り橋、あるいは太鼓橋」 なぜ反橋なのか?なぜ平橋ではないのか?
江戸・大阪等の大橋の類は下を船が通るので中ほどを高くする理由としてわかる。また神社の境内の太鼓橋は神域に入るという「門」を思わせる結界であることは説明に良く見られる。
閑話休題:「太鼓橋考:松村博。」土木史研究講演集 2016 Vol.36 というものをネットで見つけた。その「はじめに」の部分で「太鼓橋は日本独特の形式の橋と考えられ、海外で日本文化を発信するときのツールとして用いられることもある」 とあるが これは全く間違いではないか。日本よりずっと建築物の歴史の古い西洋でも石造りの反り橋はいくつもあって、コソボ紛争の時世界遺産の反り橋が破壊されて問題になった、また中国の皇帝が作った池を含む庭園に石造の太鼓橋がある。これらを知らないのだろうか。
木造橋の構造上の問題で何かあればぜひ知りたく、これから探すことにする。
西洋では水道橋は沢山あってこれらは当然ながらほぼ水平、また馬の利用が昔からあって騎馬・荷馬車のためには太鼓・反り橋は当然困る。神社の入り口に反り橋・太鼓橋はそれなりに存在意義を認めるけれども、普通の人間の生活の場の木橋、しかも船の利便を考える必要のないところでもなぜ反りが必要なのか? さらに言えば石の一枚物をわたした橋は当然ながら平らなわけで、平橋を知らないわけではなかったのに である。
この問題は 長引きそう この度は第一回目という事にしよう。
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