面白い文を見つけたので少し長いですが引用・紹介します。
「すみません、この本が欲しいんですけど」大学生らしいのが、先生にもらったと思しき参考書リストを店員に見せて、頼んでいる。 特別な教科書ならそれも仕方ないし、知る人ぞ知るといった珍しい本なら探しがいもあるだろう。けれどもきわめて一般的な本で、店内をザっと見渡せばすぐに見つかるはずのものなんかだと、頼まれた方もいいかげんウンザリするんじゃないだろうか。 少なくとも大学生であれば、必要な本は自分で探して見つけるのでないと困る。ついでに周辺の本を色々と拾い読みし、結局別な本のほうが面白くてそっちを買ってしまう、というふうなのがいい。でなければ書店へ足を運ぶ意味はないので、原理上は通信販売で十分という事になるだろう。 言うまでもなく、書店の面白さは、そこに多種多様な本が混在していて、全く未知の本との出会いが可能だという点にある。それは一種のジャングルなのであり、その中をうろつきながらてんでんばらばらな色や香りのシグナルに反応して自分の好みの果物だの危険な毒キノコだのをパッと見分ける、そのこと自体が、魅力的な冒険と言えるのである。 そんなことは図書館だってできる…中略・・・。冒険というからには街のざわめきが聞こえてくる店内の方がふさわしい。雑然と並べられた本を眺めるのがいい。 以下引用略。
我店にはいわゆる学生さんが訪れることは少ない(大学はなく、皆市外へ出ている)のだけれど時々、だいの大人でこのような行為をする人がいる。店に一歩どころか半歩足を入れて「〇●はないでしょうね」という話は前にも書いた。また新聞で見たある本屋を先だって開いた人の話で「分類はしない」という利点の話も書いた。我店はもとより実行中。しかし 我店に入ってきて3分でも棚を見渡す人はまず「他所の人」。この大牟田の住人で店に入ってある程度棚を見渡す人は本当に片手指でも余るしかいない。
昔から新刊店の商売で大牟田では「新書」が売れないのはよく言われていた、それは経験上でありていに言えば「教員」レベルの教養?人たちの不勉強の現れといえる。「本を売りたい」という話で伺うとそれがはっきりとわかる。小生に言わせれば「新書」はいろいろな分野への入門・導入になるもので、いくらかでも知識欲のある人、生徒に関心を持たせるために話題を広げたいという思いを持つ人にとっては格好の便利物のハズなのだが、そして全国の傾向はまさにそうなのだが、それが売れない、読まれない。総数は数トンにもなろうかというあちこちの部屋の書棚いっぱいの本。しかし、読まれた形跡のないもの多い。ではなぜ買ったか。お茶・書・花などの「道」の分野でよくわかるのが、師匠・先生のお勧め、あるいは立派な印刷物でのセールスマンの勧誘・分割払いである、さらに連れの誰かが買うのを見て釣られて買う。要するに「自分の意志・要求」で買うわけではないのだ。結果は棚飾りであり棚ふさぎ、さらには古書價の出るようなものはなし、なぜなら「どこにでもある(希少価値なし)・首尾一貫していない」要するにどうでもいいような紙の束の集積という事になる。
本を読むという行為はそんなに「大変」なことなのだろうか。
冒頭の浅田氏の文の載った本の表題は「本屋さんとの出会い」なのだけれど、八十人くらいの人の短文を集めてあるが 見事に「古本屋」には触れていない。 新聞などに良く「小さな本屋、珍しい、個性ある品ぞろえの本や」という惹句の記事が出るけれどもこれまた古本屋を取り上げることはまずない。古本屋こそ個性ある品ぞろえそのもの(同じものをそろえているなんてありようもない)なのに 記事を書く連中はもとより自身が本読みとはいいがたい(小生に言わせれば)単なる「新しもの好きの尻軽」そして無責任な連中だから小生なんぞがあれこれ言っても詮方ないことだろう。
浅田氏の{言うまでもなく、書店の面白さは、そこに多種多様な本が混在していて、全く未知の本との出会いが可能だという点にある。それは一種のジャングルなのであり、その中をうろつきながらてんでんばらばらな入りや香りのシグナルに反応して自分の好みの果物だの危険な毒キノコだのをパッと見分ける、そのこと自体が、魅力的な冒険と言えるのである。} これこそ古本屋の店頭・書棚なのですがねえ。
八月に入って 我店の来店客は平均一人、全くない日もある。いかに我店が大牟田の町に相応しからざる存在かわかるではないか。
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