2019年5月1日(水)曇り
金久氏の観察眼は鋭い、大栗峠には少なくとも二度訪れておられるようだが、それだけであの謎の三角道に気づいておられるのだ。わたしだって金久氏の文を読んでいたからその三角道に興味を持ったわけで、読んでいなければ何度通っても気にすることもなかっただろう。
金久氏は三角道の弓削道側の一辺は、急ぎのひとが通るショートカット道と結論付けされ、その角にある横転した石標(現在は同位置に立てられている)はお地蔵様石室の向かいにあったのではと考えておられる。そして志古田から上がってきて地蔵様の前を通過する道が峠道らしい道だと言っておられる。ところが小栗峠の本道は弓削道だと主張されているので、上記の内容はすべて矛盾することになる。
なぜ峠の大家でもある先生がこのような矛盾に陥るのか。それは目に映る大栗峠を平面的にしか見ていなくて、時間という空間を考慮されていないからだ。
2011年7月24日当時のお地蔵様と石標
大栗峠の最大の特徴は多くの支道から成り立っているということである。和知側から上粟野道、上林側から弓削道、志古田道が合流しているのだが、弓削道には山田道、瀬尾谷道、竹原道があり、上林からは志古田、弓削、瀬尾谷、竹原、山田の五村から峠に向かうことが出来る。こんな峠は他に例がなく、木住峠に清水道と遊里道が合流しているぐらいである。
これらの多くの支道は最初から揃って存在したわけでなく、何百年ひょっとしたら何千年もかけてその時代の要請に応じて作られてきたものである。そういう風に考えれば今現在の見た目で弓削道が立派だからそれが本道だというのは時代を無視した乱暴な見方ではないか。確かに江戸時代後期には輸送の幹線道路として弓削道は大活躍したと思われるが、徒歩の旅人や行者などは志古田道を利用しただろう。その関係は本道、脇道と言うものではない。わたしは大栗峠道の元祖は志古田道だと思っている。あまたある支道のなかで最も早く、楽に峠にたどり着けるのが志古田道であり、峠道開拓の原則に則っているのが志古田道なのである。
峠から志古田道、当時はシダが生い茂っていた。(2011.7)
志古田道は本来の峠道、弓削道は物資輸送が盛んになってきて作られた産業道路、山田道は藩による国境警備や通行管理の政治的道路とわたしは考えている。
このように時代、時間の流れを考慮すればあの三角道の謎も解けてくるのである。つづく