2019.5.13(月)晴れ
金久氏もわたしもお地蔵さまの前を手を合わせて通るのが本筋と考えている。それは至極当然のことだが、それではお地蔵さまの後ろをこっそり通るC道はいったい何なんだということになる。この疑問を解決するひとつのヒントがある。それは二体の地蔵さまの右の地蔵さまだ。頭部の一部の欠けた気の毒な地蔵さまだがその台座には「右 志こた わかさ 左 ゆけ 城下」とある。右は合っているが左は合っていない。
ここを左に行くと和知に行く。
左は和知の方向にある。つまりこの地蔵さまは元々この位置には無かったことになる。志古田、城下の方向を示すということは和知から上がってきた人に方向を示している。本来の位置としては(1)C道の左右、(2)ACの角、(3)石標の向かい側、(4)ABの角が考えられる。このうち(3)の石標の向かい側は地形が下っており考えにくい。いずれにしても右側の地蔵さまは現在の岩室の中にはおられなかったことは確かである。これほどはっきりしたことを金久氏が気づいておられないことに疑問を感じるかもしれないがそれは無理も無いことだ。わたしが始めて大栗峠を訪れたとき(2011年7月)地蔵さまの台座は完全に土中に埋まっていて、そこに何が書いてあるかは掘り起こさないと読めなかったのである。さすがの金久氏もそこまでしなかったのだろう。
二回目の訪問で読めるようになった。
さてもう一つの左の地蔵さまは実に良いお顔をされていて、大栗峠を訪れる楽しみの一つとなっている。この地蔵さまには「慶応元年丑年六月」(1865年)「施主 カンバヤシ志古田 村中 同長野 村中 ワチ川合 村中」の銘がある。道標となるべき案内は無いので位置関係は不明である。
この岩室だが右の地蔵さまがどこかから持ってこられたとすると、それまでは一体が納まっていたのだろうか。それにしては大きすぎはしまいか。そして和知道の六地蔵が瓦葺きの木造であったのになぜここは岩室なのだろう。C道が地蔵さまの後ろを通り過ぎるというより、なぜC道に背を向けて地蔵さまが安置されているのだろうかと疑問がわいてくる。
大栗峠の休憩所でベンチに腰掛け、ぼんやりと地蔵さまを眺めているとふとあることに気づいた。地蔵さまの石室もその前を通るA道も元々無かったのではないか。峠道は志古田道と弓削、山田道が石標の位置で出合いC道を通って和知に向かったのではないか。そうすると石標の位置、右の地蔵さまが後々石室に持ってこられたことの説明がつき、通行人は地蔵さまに背を向けて通ることも無いわけだ。右の地蔵さまbはC道の左右いずれか、T字路の手前に立っていたものだろう。左の地蔵さまaは年代も新しく、A道が開通し、石室が作られた際に彫られ、bの地蔵さまと並んで安置されたとすればつじつまが合う。
2011.10月の訪問、この石室は地蔵さま一体では広すぎる。それになぜ石室なのか。
ではなぜ新たにA道が作られたのか、石室はどうして作られたのか、謎は謎を呼ぶわけだが、ここからがAIなんかでは太刀打ちできない、人間の想像力の世界となるのだ。つづく