晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠ガイド-5 5/7

2019-05-07 | 上林たんけん隊

2019.5.7(火)快晴

 大栗峠に存在する石仏二体(a,b)と石標(c)について検証してみよう。石標は腰の高さぐらいか、従前から横倒しに倒れていて、2017年の整備の際に同位置に立てられたもの。表には梵字と「右わち 左志こた」と書かれている。裏には「文政七申 十月吉辰 本願 山田村世話人中 阿波国 行者 長治郎」とある。文政7年は1824年で、弓削道と山田道の分岐にある南無大師遍昭金剛の石碑と同一年月である。従ってこの二つの石造物は同じ時期の同じ機会に立てられたと考えていいようだ。この年に城下で大きな普請があり、その記念に立てられたものかというのは川端二三三郎先生の言である。

現在の石標
 ということは1824年には弓削道も山田道も存在したということである。ちなみに寛政11年(1799年)の丹波国大絵図には大栗峠を通過する道は弓削道のみが記されている。多分に大まかな地図とはいえ、当時の主要街道が弓削道であったといえるのではないか。

東にシデ山に向かう道があるが、現在の登山道なので無視して頂きたい。
 さてこの石標について金久氏は地蔵様の向かいにあったのではと想像されている。あくまで地蔵様の前を通過するのが本道で(道-A)、道ーCは緊急のショートカット道という考え方だ。また方向も「右 和知 左志ここた」という表示が合ってくる。しかしこの道しるべを誰が見るかと考えたとき地蔵様の前はあり得ないことになる。峠を通過する旅人が地理も方向も解らず、ただ道しるべのみを頼って通過するとすれば、志古田から上がってきた人は弓削、山田に向かう人はいないだろうから、Aの道に入ればそのまま進めば和知に行けると解る。ただBの道に入ってしまうと和知に行くのはどう行くのか解らない。
 次に和知から登ってきた人はというとAとCの道のどちらへ行くのか解らない。仮にA道に入ったとしても志古田に向かう道は解っても弓削、山田に向かう人は解らない。

  最後に弓削、山田から登ってきた人は、Cの道に入ってしまえばどちらに向かえばいいのか解らない。Bの道に入ると志古田と和知の分岐でどちらへ行けばいいのか解らない。この石標は「山田村世話人中」の銘があるように弓削、山田道から来る人を対象に考えられていると思うので地蔵さまの向かいというのは無理がありそうだ。またどうして離れたBCの角の現在地に運ばれたのかも疑問が残る。
 弓削、山田方面から上がってきたときに最も効果的な位置は、現在の位置である。右に行けば和知で、左は志古田方面に行ってしまうよと教えているわけだから。「南無大師遍昭金剛」の石碑が弓削道と山田道を分け、この石標が志古田道と和知道を分けているのだから最もわかりやすい。
 二度目の峠訪問の際に横倒しになった石標の周囲に石標の礎石というか支えとなるべき大きな石材をいくつか発見した。それらが自然のものなのか石標と対のものなのか現在は取り払われて確認できないが、「南無大師遍昭金剛」の石碑付近にも同様の石材があり、石標が現在の位置にあったひとつの参考となるようだ。


2011年10月横倒しの石標の周囲に石材発見、弓削・山田道の分岐の石碑の周囲にも石材がある。
 そうすると山田方面からの人はC道を辿ることとなり、地蔵様を拝んで通るという慣習に反することとなる。つづく


コメント
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