2019.11.23(土)快晴11/20 考察 仮称念道峠(於与岐から念道に向かう峠)は街道か?
残念ながら街道ではなさそうだ。念道から第二の分岐点まで街道を思わせる立派な尾根道が走っているのだが、分岐点を過ぎると途端に消えてしまうのだ。分岐から稜線までそして稜線上の道も途切れ途切れの踏み跡でしかない。どうやら下部の豪華な道は肥刈りや炭焼などの作業用の道ではなかろうか。あまりに深く広く掘り下げられた道は近年の仕業と思われる。重機こそ使われていないが、大正、昭和初期の工事ではないか。
ここまで深く掘り下げられているのは、傾斜の調整のためだろうか?
明治28年陸地測量部の地図を見ても、この峠道は中太の破線で示されていて、幹線道路ではなさそうだ。於与岐から上林に向かう主要な道路は於与岐大又から改心の道を使った日置谷に降りる道となっている。これだと大栗峠山田道を使って京に向かうこともできる。
明治28年大日本帝国陸地測量部二万分の一地形図「東谷田村」から
建田こんぴら大祭に吉崎家の主が通った道は(仮称)念道峠の可能性は無きにしも非ずだが、吉崎家は於与岐下村にあるそうで、上杉に出て施福寺、黒石峠を越える道が距離的には遠いが、よく整備されていて労力的にも楽なようだ。蓮ヶ峰の連山はさほど高くはないのだが、350mあたりから急傾斜になっており、登り下りとも厳しいものがある。だからこそ修験の山となったのだろう。
明治の地図を見ていると、施福寺から397mピークの東稜線を越え、於与岐の里で仮称念道峠に合流する道が描かれている。これは現在の地図には現れないが、於与岐から上杉を廻るより早く黒石峠に行けそうだ。しかも稜線は390m程度できつくない。於与岐から建田にいくには最短最速だろう。吉崎家の主はこの道を辿ったのだろうと想像する。
さて井根の日圓寺から施福寺まで巡礼者の辿った道はというと、西谷からサクラ峠の道が重要な道だったよ八田うだ。現在は林道で旧道は見る影もなくなっているそうだが、以前の峠を知る人には随分いい峠だったと聞いている。これらの道を辿ってみたい気はするが前者の道はおそらく消滅していそうだと思う。終わり
【今日の”のび”】NO.14
好天の朝は霧が深い、熊の出没も気になるところだが、霧とススキの穂が相まっていい景色だ。