2020.7.14(火)雨
苦から逃れるにはひたすら禅に取り組み(禅定)身も心も空になれという心経の教えは最も救われるべき凡人庶民には到底不可能なことと思われる。では一体誰のために書かれたものだろう、人々を救わんとする僧のための教科書なのだろうか。とすると多くの庶民がそのわけも解らず唱え親しまれていることの説明がつかない。
ところで今、妙なことに気付いた。どのような俗人凡人でも、悟りに至らない僧であっても簡単に即座に身も心も空になることができる方法に気付いたのだ。それは死ぬことである。死ねば誰だって身も心も空になり、苦から逃れることもできる。しかも即座に仏となる事ができるのだ。即身成仏や補陀落渡海など理解しがたい行動も根底にこのような考えがあるのだとしたらわかりやすい。しかし死んでも成仏できない地獄の思想というのも無視できない。(2010.7.30参照)地獄って実はこの世のことではないかと書いたことがあるが、あの世の地獄がこの世のことであって、この世の生き方を追求する心経(仏教)があの世のことであったとしたらこれはパラドックスである。
死ねば全てが空になり、苦もなくなるという考えは生きている間は苦しくても我慢して生きろという権力者、為政者にとっては都合のいい思想になる。中世、近世の仏教、宗教にはそのような一面があったのではないだろうか。仏陀をはじめとして仏教を広めた僧たちはもちろんそのようなつもりは毛頭ないとしても、権力者、封建領主たちはうまく宗教を利用したに違いない。それは古代においてでもしかりで、蘇我氏と物部氏の宗教戦争も聖武天皇の盧舎那仏や寺院の建立もそれが信仰心に基づくものとは考えられない。マルクスが宗教は民衆のアヘンであると言ったのも少しはそういうことが考えられたからだろうか。
昨年亡くなられた義兄の位牌の前で般若心経をあげた。初めて人前で経を詠んだので行きつ戻りつ、飛ばしたり詰まったりで情けない経詠みだったが、一丁前に「この部分はこういう意味、、、」などと説法まがいのことをしていたら、姉がポツリと言った。「意味は解らんけど、和尚さんはとにかく詠んであげることと言うたはったで」
ここではたと気づいた、心経の本質はここにあるのではないだろうか。つづく