晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

般若心経二冊-6

2020-07-22 | 雨読

2020.7.22(水)晴れ
 宗教とは生きている人のためにあるものであって、苦しみを和らげ心の安らぎをもたらすものであるというわたしの思いに段々近づいてきた。例えば健康や長寿などについて考えるとき、運動や食べ物ばかりを考えがちだが、心の平安ということが大きく影響することが言われはじめた。特にストレス軽減法としてのマインドフルネスが企業や学校で取り入れられるようになってきた。非宗教的な瞑想と言われているが、元々は仏教あるいは禅であるようだ。
 禅の簡易版のようなもので、椅子などに座って目をつぶり、余計なことを考えないで今ある自分、例えば呼吸に意識を集中するというもので、数分で良いというのだからこれでストレスが軽減されれば素晴らしいことだ。かみさんに教えると早速実践してかなりなるが効果の程は定かでない。わたしは座ってやるのはやっていないが、歩いて呼吸に集中する方法を実践している。最近は特に般若心経を唱えながら歩いているので、そのことだけに集中できる。これは確かにすがすがしさをおぼえて効果がある。ところが本編2(6.14)でも書いたように、効果はその時だけで日常に戻ると苦しみやイライラが蘇ってくるのである。
 昨年2月にマインドフルネスに関するシンポジウムが京都で行われ、参加したのだが(2019.2.16参照)その時はあまり深い考えもなく、内容についてもさほど興味深いものでもなかった。特に曹洞宗国際センター所長の藤田一照氏については、変に横文字なんぞ使って、面白くもない公演だなあと思っていた。(失礼)ところが今仏教や般若心経、心の平安について考え始めて、改めて講演内容をその後発行された冊子でみると、禅の立場から実に適格な生きる指針を語っておられるかがわかった。

ひと・健康・未来のシンポジウムは後日冊子で発行される。
 Doing mindfulnessではなくてBeing mindfulであれというのがそのひとつである。つまり「さあやるぞと思わないとマインドフルになれないようなレベルだと、いざというときに何の役にも立たない」「日常当たり前に行われている行為の一つ一つが、マインドフルネスというクオリティで行われているということが大事になってくるのです。」ということなのだ。
Being mindfulで生活するにはどうするかということなんだが、それこそが禅の教えである。禅の生活を少しでもやってみた方は御存じだと思うが、座禅はもちろん寝起きから掃除、食事、入浴や用便まで全て作法があって、そのひとつひとつに集中して行うのである。その意味が今にして解ってきた次第であるが、毎日を惰性で生きるのではなく、今日という日は過去にも未来にもない唯一の時間だと認識して生活のあらゆる場面を大切にし集中することである。そうすることによって常にマインドフルであって、「度一切苦厄」ということになるのではないだろうか。ようやく般若心経と生きるための仏教というのが結びついてきた。つづく 

【今日の”のびちゃん”】NO. 34
ストライキのびが少しずつ言うことを聞くようになってきた。それでも頑固さはあって、行きたいところは頑としてきかない。

薄暗い山みちが大好き、隣の家も興味津々。 

コメント
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