2020.7.25(土)曇り
般若心経の目的は空になることだと思うのだが、空になることとは如何なる事か、「般若心経のこころ」に次の文章がある。
「自我は空だ」ということを、みなさん自身で自覚体験してほしいと思う。そこで、私(秋月龍珉氏)は私の本師山田無文老師の体験談を次に紹介して、解説に代えたいと思う。老師は、青年時代に結核になって、医者に見放されて自宅で療養していた。ある朝、縁側で涼しい風に吹かれた。そのときに、「風とは何だったのかなあ」と考えた。「そうだ、風は空気だ」と思った。そのとき、自分は十何年かずっと忘れていたけれども、空気というものがあって、私を生かしてくれていた、ということに気づいた。自分はこれまで自分で生きてきたと思ってきたけれども、私は「生かされ生きて」いたのだということに気づいた。「生きよ、生きよ」と私を生かしてくれている天地の生命があった。私は結核なんかで死なないぞと思ったとたん、元気が湧いてきて、それがきっかけで病気を克服した。
話は続くのだが、これが「色即是空」ということのようだ。しかし氏はその前に、「般若波羅蜜多」を行じてみなければ「空」の悟りは開けてこない、とおっしゃっているのだ。「般若波羅蜜多」の行とはずばり「座禅」つまり「禅定」である。山田無文老師は療養中に縁側で涼しい風に吹かれておられて、「空」を悟られた。その時座禅をしておられたとは書いてない。などとひねくれた思いをしていたら、「南禅寺の管長に田中寛洲氏が、、、」という新聞記事が眼に入った。
京都新聞(2020.7.7)
自身が最も深い禅定に入った時のことは今も鮮明に今も鮮明に覚えている。40歳を少し過ぎた頃、岡山の寺で四六時中「無、無」と一心に励んでいたと一心に励んでいた。風邪をひいて咳が止まらない状態でも心は非常に安定して座り続けていたら、ある時「咳をしている自分がない」ことに気付いた。「自己を空じたすがすがしさは、その体験のある人でないと分からない」
なるほどこの場合は禅定によって空の悟りを体験されたと言うことだ。ただ前者の場合も「座禅こそが私達に真に「無我」の実践的体得を可能にする近道だからである。」とある。近道であって決して座禅でなくてもいいというものらしい。田中氏は続けて、「だが、その境地は常人が至ることのできないものでは決して無いという。雑念なしに目の前のことに一心不乱になることが大切」と説いておられる。
わたしが、禅を組んでもその時は無になって清々しく感じても、禅が終わって家や社会に帰れば元の木阿弥になると書いてきたが、そうではなくて日々の生活の一齣一齣を一心不乱に大切に生きることが空の悟りに近づくことではないかと思えるのである。おわり
【今日の”のびちゃん”】NO. 35
三年寝た子で感情表現の少ないのびをなんとか喜ばせてあげようと、おおいの芝生広場に連れて行く。上林では仲間のいない環境だが、芝生広場ならいっぱいワンコが来ているはずだ。当日はいなかったが予想通り匂いプンプンでおおはしゃぎ!
昼は先週見つけたレストランRondoに行ったんだけど、初めてのところでも怖じけることもなく随分よい子で大正解。17日オープンのこの店で、ワンコ来店はのびが第一号だって、また連れてってやろーぜ。
建物の中でも食事のテーブルの下でもよいこちゃんでした。