2020.12.10(木)曇り
今日まで記事が書けなかったのは、三島由紀夫の死について考えていたからである。当初はその時富士山に居た事だけを書こうと思っていたのだが、その死について考え始めたら段々深みにはまって描くことが出来なくなってしまった。結論を出そうとしたからかもしれない、でも結論なんて出るはずも無いと言うことが解ってやっと書き始めることができた。
1970年、確かに学生運動は激しかったが、その頃はセクト対立の内ゲバ状態が主になっていて、大衆の支持もなく、三島が自衛隊を使ってまで鎮圧しようとすべきものではなかったようだ。また、盾の会はいったい何だったのだろう。自衛隊の体験入隊で心身を鍛える様子や洒落た制服で統一された姿は週刊誌を賑わせたが彼らが国家の秩序を乱すデモ隊と衝突したというニュースは聞いたことはない。三島の肉体改造などと同様のナルシズムの一環なのだろうか。
三島事件の数年前に三島は自衛隊の青年幹部と会っている。その際には拡大する学生運動を鎮圧できるよう憲法改正のための決起、クーデターを打診したというが、それは見事に断られた。その時の幹部は、国民に銃を向けることはできないと語っていたが、実際には鎮圧の訓練は行われていたそうである。その当時は学生運動の鎮圧が三島の喫緊の問題だったのだろうが、三島事件の1970年には学生運動の鎮圧は彼にとって重要な問題とはなっていなかったと思われる。死を賭してまで訴えたかったことはいったい何だったのだろう、少なくともわたしがかみさんに答えた”学生運動の鎮圧”なんてのは的が外れているのだろう。
11月25日に前後して新聞紙上などで三島事件についての論評が多く書かれ、読者の投稿欄でもいくつかの投稿を見ることがあった。実に様々な見解があり、これだという真相は見つからない。テレビなどで事件前後の動きは詳しく報道されており、真相に近づくヒントは与えられているのだが、一番大切な檄文については、その内容が報道されることはなかった。そして自分自身も檄文を読んでないことに気づく。もちろん内容の一部は聞き及んでいたが、全文を読んだことはなかった。改めて全文を読むと新聞紙上を賑わした思想家の論評がよく理解できてくる。その中で11月23日に讀賣新聞に掲載された先崎彰容日大教授らの論評が的を得ているように思える。
「平凡な生活に満足し、どっぷり漬かっている戦後の雰囲気に耐えられなかった」と平易な言葉で語っておられるが、1960年代は新安保条約、東京オリンピック、学生紛争など三島にとっては耐えられない時勢だったのだろう。
檄文の中に、「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」とある部分を見てもそのことがうかがえる。
しかしそういう考えを持ったとしても自決しなければならないというのは理解できない。つづく
2020.11.23讀賣新聞