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ノンアルコールビール

2009-05-19 | 心の体験的日記
これまでもあった
しかし、あまりおいしくなかったし
ノンとはいいながら、わずかにアルコールが入っていた
疲れているときに飲むと酔う

しかし、キリンからこんどでたフリー
アルコール0%
あじもよい

ビール=アルコール+ビールの素材 になった

●人はなぜ連想するのか?

2009-05-19 | 認知心理学
●人はなぜ連想するのか?

まずは「なぜ連想するのか?」について考えてみます。この箇所は、長くてやや理屈っぽい解説になります。心理学に興味のない人は、ざっと読み流して次ページに進んでください。

あなたの頭の中には膨大な知識が貯蔵されています。連想が発生するのは、図1のように、これらの膨大な知識が複雑で多彩なネットワークを形成しているからです。


ある知識に注意が向けられていても、それとリンクする別の知識が自然に活性化して、そちらに注意を向けさせてしまうのです。

 例えば、「不況」について考えたとします。すると、それと意味的に近い「失業」も活性化します。リンクの強度はやや弱いものの「モノ作り」も活性化します。それらにつられて「家族」も活性化します。

ありとあらゆる語彙(「知識要素」と言います)が、個々人が持っている知識の量に応じてどんどん活性化し、そちらに注意を向けさせようとします。これが連想となって頭の中をかけ巡ることになるのです。

 通常は、こうして連想された知識要素を素材にして、統制のされた論理に従った思考をすることになります。

 統制された論理的思考 は、「注意量の制約」と「自己コントロール」のもとでなされます。

ここで「注意量の制約」という表現には、解説が必要ですね。注意は頭の働きをコントロールしています。注意をたくさん注げば、頭の働きは活発になります。注意と頭の働きとの間には、ガソリンと自動車のような関係があるのです。

その注意量には限界があり、その範囲内で注意は配分されます。いくらたくさんの知識が活性化しても、そのすべてに注意を払うわけにはいきません。一度に注意を払おうとしても、活性度の高いほうから順にせいぜい数個程度(図の黄色部分) しか注意を及ぼすことしかできません。これが、思考の範囲を限定することになります。

 さらに通常は、思考をする際に「自己コントロール」が働きます。何に注意の焦点を当てるかを自分で決めることができるため、とりあえず必要な知識だけに注意を払い、それらの要素だけ活性度を高めることも可能です。

そして、それらの知識要素を論理でつないでいきます。 こうして、連想された知識要素を素材に統制のとれた思考を展開させている のです。
 
このように考えると、連想なし、あるいは貧困な連想は、貧困な思考しか生み出さないことがわかりますね。


過剰安全

2009-05-19 | 安全、安心、
06・6・16海保博之 「安全・安心の心理学」新曜社より


過剰安全


**4行あく

           ———安全にコストをかけ過ぎると
●危険から隔離する
最近のプラットホームは、新幹線のように、線路とホームの間に仕切りドアが設置されるようになってきた。道路でも歩行者と車の分離がなされるようになってきた。危険から人を隔離する設備である。安全のためには好ましい環境である。
しかし、お金がかかっているであろうことは、容易に推測できる。安全をお金で買う象徴的な設備である。多分、その効果は、年に1人か2人のホーム転落者、事故被害者を救うくらいであろう。だからこその必要なコストと考えるか、それくらいの危険率ならもっと安上がりでと考えるか。これがここでの話である。**注1

●安全にかけるコスト
大は原子力発電所から小は家庭まで、安全にはそれなりのコストをかけている。リスク工学に従うまでもなく、どれくらいのコストをかけるかは、危険の発生率と程度の見積もりによることになる。
保険業界には、そのあたりをマクロに査定するための精緻な数学的公式があると思われるが、一般には、そんな面倒な計算はしない。直感的な見積もりに従って、安全のためのコストを計算して実践している。
直観的な見積りなので、そこに関与する要因はきわめて心理的である。家庭で言うなら、「犯罪が増えているから鍵をもう一つ」「地震が多いので家具留めを追加しよう」「寝る前の安全確認をもっときちんと」となるが、どこまでコストをかけて安全対策をすれば十分かの判断は、その人の体験や犯罪恐怖や災害不安などにかかっている。

●安全のコスト・パフォーマンス
安全を保持するには、それなりのコストをかけなければならないのは当然のことである。しかし、企業論理、あるいは損得論理からすれば、コストをかけたらそれによるパフォーマンスを考えるのも、これまた当然である。これが、コスト・パフォーマンスという考えである。安全コストの計算には、このコスト・パフォーマンスの考えも強く入っている。
一般的に言うなら、安全が長期間にわたって持続しているときには、コストあたりのパフォーマンスを高く見積もる。つまり少ないコストで安全を保とうとする。安全が脅かされると、あるいは脅かされる不安が高まると、パフォーマンスを度外視してでも安全のためのコストを注ぐことになる。
このあたりはシーソーゲームのようなものである。コストとパフォーマンスのバランスが崩れると、安全が脅かされるか、次に述べる過剰安全という事態になる。
もっとも、安全だけは、こうした考えからはずすべし、という極論もないわけではない。行政分野では、コスト意識が希薄なので、こうした考えが受け入れられやすい。これは、過剰安全を押し進める方向に動くことになる。

●安全が過剰
 空港での身体検査は、テロ防止対策のために一層その厳しさを増している。そこに設置されている機器もさることながら、チェックの仕事にかかわっている人々の多さには驚く。また、道路工事には最近は必ず警備員がつく。
いずれも安全のためのコストを押し上げているが、統計をみるまでもなく、その効果(パフォーマンス)は上がっていることは容易に推測がつく。
しかし、一方では、それほどまでにお金をかけてそこまでやらなくともという感じも抱くことがある。
ホーム全体を覆ってしまったり、セキュイティ対策のため送金額の上限を定めたり、複雑な手順を踏まないと使えないパソコン、何段階ものチェックシステムなどなど。
これらすべてを過剰安全と言うわけではない。ただ、安全対策は、想定される危険を念頭に置いて立てられるので、その想定範囲や想定される危険の程度の見積もりが、安全対策を講ずる側と、それを守らされる側とで必ずしも一致しないことが多い。銀行などの例にみられるように、危険の発生が責任問題、保障問題と直結するような場合には、安全対策を講ずる側の見積もりがかなり高くなりので、過剰安全ではないかとの思いを、守らされる側は持つ。
 
●やや過剰かなくらいが丁度良い
安全であるほど安全対策には目がいかない。したがって、コストもかけない。そこをねらうかのようにして、危険が突然襲いかかってくる。
したがって、安全対策はやや過剰かな、と思われるくらいで丁度良い。それによって発生する不便は、それこそ、安全のための心理的、行動的なコストとして我慢するしかない。
 ただ、過剰安全が危険ゼロを目ざすまでになると、世の中が円滑に動かなくなる。挑戦心が殺がれることにもなる。もっと恐ろしいのは、安全帝国主義と呼ぶにふさわしい事態の発生である。安全を錦の御旗に、有無を言わせぬ権力をふるうような事態である。行政権力の中にこうした傾向があるで、警戒したい。(K)




注1 06年6月16日付けの日経新聞朝刊よると、今年度のJR各社の安全投資が、全投資額のほぼ半分を占める。



 
 


どうなる、新型インフルエンザ対応

2009-05-19 | 心の体験的日記
咳がよく出るほう
しかし、インフルが疑われると困るので
抑制している
それにしても、どうなるのだろう

もう拡大はとめることはできない
元気な人はかかってしまって免疫をつけてしまう
子どもや高齢者などインフル弱者に限定して
予防網を調える

それにしても
マスクと手洗いで予防できるのかなー
学校を1週間程度閉鎖しても
おさまるとは思えないがなー


落ち着き先がみえない

たった一本の電話で触発された 

2009-05-19 | 心の体験的日記
たった一本の電話で触発された (3年前の5月


TV局から、ひき逃げの心理についてコメントを求められた
お門違いと断って電話を切ったら、今やっているワードマップの
キーワードを新しく思いついた
「隠蔽」
用語数がやや不足していただけに助かった
人と話す、問われるのはアイディアを触発してくれる
積極的に引き受けるようにしよう
老化防止にも効果的
@@@@

09・5.19
昨日も、詐欺の心理での取材と出演依頼
これもまったく同じ
断ってから
あれこれ想念を刺激された
でも、こういうことがすくなくなってはきている
あたりまえではある
こうやって断ってばかりいれば
でも反省はしない