hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

宿場町を歩く〜古河宿②

2022-11-24 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その19。古河宿②、レストランSun Roseでランチをした後、自転車に乗り、古河公方公園(古河総合公園)をめざす。

表通りから少し中にはいると鮒の甘露煮の専門店『ぬた屋』のところに出る。ぬた屋は江戸時代創業の佃煮専門店で特に鮒の甘露煮は新潟県小千谷から古河にお嫁に来たおつまさんが小千谷の冬の食べ物として作ったが、この店に出入りしていた野村安次郎が見よう見まねで再現したと言われている。



ぬた屋を左に曲がると鷹見泉石記念館、古河歴史博物館などあるが、いずれも休館日のため、なかにはいることは叶わなかった。



ただ、鷹見千石記念館は中の様子を見ると、古風な本館や蔵が並んでいるのが見えた。ガイドマップにある裏道を走るが途中はのんびりした道路、コキアが赤くならんで咲いていた。

国道に出ると左に曲がる。坂東太郎というローカルレストランが目印。少し走ると細い道が出てくるのでこれを右折、その先が二又になり、思い切って右の道を行くが、舗装がとぎれてでこぼこ道に。それでも古河総合公園の入口には出る。自転車のまま中に入っていく。かなり広い公園だが、途中で自転車乗入れ禁止に気付き、やむなく事務所のところまで押して駐輪場にいれた。



ここまで結構な距離、歩いて園内を歩く。まずは古民家が移築されているところへ。あまり案内板はないが、無事到着、手前が旧飛田家住宅。

18世紀前半の曲がり屋で茨城県金砂郷村(現在は町)を移築、中に馬屋があるのが特徴である。



その隣が旧中山家住宅。江戸時代中期と思われる直家(じきや)という建て方の住宅で茨城県岩井市にあったものを移築している。典型的な大型農家とのこと。二つとも田舎に行けばどこにでもあったような建物である。



その横には『古河公方館跡』という石碑、この辺りにあった。歴史は古く足利持氏の子、足利成氏は1449年に元服、関東管領上杉氏と抗争を続け、1455年に古河に移り住み、古河公方と称した。古河城の別館のあったこの場所は1627年に廃止されるまで鴻巣御所と呼ばれていたのである。ただ、今は建物もなく、堀跡と土塁が残るのみである。



公園内で近くにあるのが『芋ころがし坂』、由来はわからないがこの辺りにはかつてサツマイモの畑があったとのこと。面白い名前である。


帰り道には香取神社の横を通り、再び坂長へ、自転車を返して駅まで戻る。古河にせっかく来たのに博物館や記念館が休館日で入れなかったのは残念、ただ、今までで休業続きだった古民家カフェでランチが食べられたので良しとするか。





宿場町を歩く〜古河宿①

2022-11-16 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その18。古河宿①。中田宿・野木宿と共に古河藩が管理した古河3宿の一つであり古河城を中心とした宿場町。

古河藩は徳川家康が重要視しており、松平信康(家康嫡男)の娘婿にあたる小笠原秀政を入部させた。その後、度々にわたり城主は変わったが、徳川家と姻戚または関係の深い者を当てている。将軍が東照宮に参る際には宿城として機能、日光街道における主要な宿場町である。

古河駅の構内に観光案内所があるのでまず立ち寄る。ややお年を召したおばさまが2人、丁寧にご対応いただき、ガイドマップと古河公方公園のパンフレットを貰う。




取り敢えず駅前の道をまっすぐ歩くが、その途上にも昔ながらの大衆食堂や靴屋などの懐かしい店が並んでいる。(残念ながら営業はしていなかったが)

日光街道の角には立派な道標が残されていて『左日光道、右江戸道』と刻まれている。これを左に曲がる。


他の宿場町で歩いてきた日光街道とは違い、対面2車線+歩道という立派な道。それでも道沿いには『茶』と書かれた立派な蔵が残っていたりする。



道のところどころには『古河宿』と書いた案内板というか灯篭がある。今は跡形もないが本陣跡や藩使者取次所跡などと書かれている。



肴町は城内を参勤交代の大名が通る際にその使者が城に挨拶に行き、その使者を藩の役人が接待する際に行なったご馳走番所があったためこの名前がついた。



肴町通りに入るとすぐに『米銀』という仕出し屋(お弁当)、『関善商店』というお茶を商う店、『坂長』という酒屋が並んでいる。現在の坂長はお休み処としてカフェやお土産、ミニギャラリー、物販などを行う公共施設でここで宿場印を求め、レンタサイクルを調達した。(レンタサイクルは無料)敷地には5つの蔵があり、国の登録有形文化財の指定も受けていて見学する価値もある。(以下、次回)


宿場町を歩く〜中田宿

2022-11-12 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その17、中田宿。古河藩が管理していた古河三宿(中田、古河、野木)の一つで江戸から行くと利根川を渡った次の宿場。房川渡中田関所は江戸時代栗橋宿と中田宿の間、利根川筋古利根川筋に設置された。しかし、その後対岸の栗橋に移されたので栗橋の関所として知られるようになった。



利根川橋を渡り、すぐに左に行く坂を下ると左側に関所跡の碑が残されている。



さらに右折すると静橋があるが、渡ったところに中田宿の碑が残されている。宿場の業務は栗橋宿と交代で行っていたが、天保年間には栗橋宿404軒に対して中田宿は69軒であった。



その先は旧街道がまっすぐ続くが昔ながらの民家は1軒確認できた程度である。



鶴峯八幡神社に到着。ここの社務所で宿場印をゲットするはずなのだが、人がいない。缶に300円を入れて置いてある宿場印を手に入れる。



そこに届け物の人が登場、社務所の人が出てきて『お参りですか』と聞かれ、『宿場印を集めてまして』と答えると『どちらからですか』と聞かれる。『東京から来て、栗橋駅で自転車できました。』と答えると『少しお待ちください』と言って社務所に戻る。



お守りでもくれるのかと思っていたら、『わざわざ来てもらったのですから』と言われて御神酒を頂く。

鶴峯八幡神社の由緒は1180年、頼朝の命により下河辺挙兵により当地に集結させ合戦に向かう際に川沿いの小高い山にある八幡神社に祈願して勝利を得た。頼朝は武運が拓かれたと神徳を感じ、翌年鶴岡八幡宮から御神霊を勧請したものとされている。

隣にあるのが光了寺、静御前のゆかりの地であり、後鳥羽上皇の前で舞をした際に着ていた蛙蟆龍の舞衣(あまりょうのぶえ)が保管されている。

古河第四小学校あたりまで走ったが、特に街道を表すものもなく、Uターンして栗橋駅に向かった。






宿場町を歩く〜栗原宿②

2022-11-11 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その16。栗橋宿②、栗橋は通常七福神に対してこれに吉祥天を加えた八福神となる。3つ目のお寺は深廣寺(じんこうじ)で恵比須様が祀られている。



このお寺は栗橋村を開墾した並木五郎平が1615年に開基。開山は無涯閑栄上人、この2代目住職である単信上人が建立した『六角名字塔』が21基ある。



これは三界に迷う衆生の得脱や繁栄、豊作を祈った千人供養塔であり、伊豆で刻み、船で運んだものである。



その先には床屋さんなのだが、これは現役。まるで映画のセットのように子供の頃見た『床屋さん』そのものであった。



再び街道に戻り、御宿場印を求めて商店街に行く。パンフには畳屋さんや洋服屋などが記されているが、営業している店がなかなかない。ようやくよしだや呉服店が開いていて、店内に入り、腰の低いご主人から御宿場印を譲ってもらう。

ご主人にこの辺りのことを聞くと店を閉めるところが増えているとのこと。さらに八坂神社あたりは道の付け替えなども影響してさらに寂れてしまったとのこと。 

関所跡は右手にある土手のそばに移っていると聞いた。



再び自転車に乗り、少し行くと右側に空き地があり、奥に関所の石碑があった。坂を登ると利根川の河原である。


街道を歩くと上り坂が現れ、右手に登る道は封鎖されている。已む無く新しく出来た道を真っ直ぐに登っていく。突き当たりに『八坂神社』という信号があり、これを右に曲がるが、防音板が建てられていて神社が見えない。



ようやく右に神社入口を発見、自転車を止め、鳥居をくぐり、境内に入る。八坂神社も栗橋村を開墾した並木五郎平が元々住んでいた元栗橋(茨城県猿島郡五霞村)に鎮座していたと伝わり、移転と共にこの地に移ってきた。素戔嗚神を祀っていて利根川から八坂神社の神を亀と鯉が運んできたという言い伝えから朱印には亀と鯉が描かれ、また、鯉の像が神社入口にある。


(社務所)
御朱印を頂くが、この神社も区画整理から坂の下より上に移転し、眺めが良くなったと神社の方が話してくれた。



神社を出て右に向かうと利根川橋が見えてくる。道を左に曲がると橋、実は2本あり、上流側が1966年、下流側は1924年に建設した橋を作り直し、2009年より上りの橋として共用を開始した。長さが641mもあり、渡り始めると県境が出てくる。







宿場町を歩く〜栗橋宿①

2022-11-02 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その15。栗橋宿①、前回の幸手宿のお隣にある栗橋宿を栗橋駅から歩く。栗橋駅は東武日光線とJR宇都宮(東北)線が乗入れているが、今回は湘南新宿ライン、宇都宮線を乗継、JR栗橋駅に降り立つ。



駅前には広大な野原が広がっている。宇都宮線栗橋駅は埼玉県最後の駅、隣の古河駅は茨城県、次の野木駅は群馬県と3駅で3県を跨ぐ珍しい駅でもある。

西口に向かうと駅前広場があり、タクシーが暇そうに止まっている。下調べで駅前の美容院がレンタサイクルを兼ねている情報を得て訝しながらも店に入ると確かに美容院兼自転車用の駐輪場を経営している。

300円を支払うと5台の様々な自転車があり、ここから選択する仕組み。1番大きな白い自転車を借りてスタート。因みにお金は払うが、名前を聞かれたのみ、連絡先も聞かず、身分証明書も見せず、終わったらここに返してと言われたのみであった。

スタートは駅近くにある静御前の墓から。案内板によると『静御前は源義経の妻(妾)であるが、1168年に生まれたとされ、15歳の頃、京都にいた際に大変な日照りとなった。後鳥羽上皇が、雨乞いの舞を100人の舞姫に舞わせたところ、最後の静が舞うと天が俄にかき曇り、3日雨が降ったと言われている。(その際に来ていた舞衣は隣の中田宿にある西方寺に残されている。)



その後、義経の寵愛を受けるも兄頼朝に不興を買い、東北に落ち延びてしまう。静御前もこれを追うが下総国で義経討伐の報を知り、京都に戻り、菩提を慰めようとしたが、病になり、1189年に栗橋で亡くなったと言われている。静御前の遺骸は侍女がこの地にあった高柳寺に埋葬したが、墓を示すものすらなかったことを関東郡代中川忠秀が不憫に思い、1803年に『静女之墳』の墓碑を建立したものが残されている』とある。



静御前は今NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中にも出てくるらしいのだが、それほど人がいる訳でもなかった。静御前の墓に手を合わせ、再び自転車に乗る。

栗橋小学校の横を通過して旧日光道中に到着、少し右手に走ると焙烙地蔵がお祀りされている。『焙烙』とは素焼きの平たい鍋のことで祠の中には地蔵様と焙烙が祀られている。



この地蔵は宝永7年(1710年)の銘があるとのこと。焙烙地蔵は江戸時代に関所があり、関所破りをした者は火炙りの刑に処せられたが、この御霊を供養するために建立されたものと伝わっている。



旧日光道中には昔ながらの商家が幾つも並んでいるが、他の宿場町と違いあまり解説板も設置されていない。殆どの家の戸が閉まっていて今も使われているのかすらわからない。



殆ど車も通らない旧街道を気持ちよく自転車に乗る。左右に浄信寺、顕正寺と立派なお寺が出現。何も栗橋八福神を祀っていて浄信寺には寿老人、顕正寺には毘沙門天が祀ってある。(以下、次回)

宿場町を歩く〜幸手宿④

2022-08-22 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その14。幸手宿④、日光街道を歩くと道が右に曲がっていて大きな灯籠がある。突き当たりには、正福寺。僧侶の修学機関である談林所が置かれ、多くの修行僧が学んだ。今は建物も新しくなっている。



境内には日光道中と刻まれた大きな道標があり、権現堂河岸と日光街道を示している。



さらに奥には義賑窮餓之碑、天明の飢饉の際に幸手宿の商人がこの地で粥を振る舞ったことを記念した碑である。



寺の向かい側には幸手一里塚跡。日本橋から12里の一里塚だが、後に作られた碑のみがある。ただ、この辺りまでが幸手宿だったようだ。



ここから権現堂桜堤に向かう。歩いてではとても行けないが、今日は自転車に乗っているため、何とかなる。内国府間の交差点を右に曲がり、道なりにいくと桜堤の下に出る。堤を登ると左側には沢山の紫陽花が植えられていた。



さらに茶屋の隣を通り、先に行くと河川敷には大量のヒマワリが植えられていて壮観。全ての花が同じように川を向いているため、手前側は全ての後ろしか見えない。

やむなく反対側まで歩くとヒマワリの花を眺める事ができた。



河川敷には山羊が飼われていて親子連れが散歩をしていた。並木は今は緑の葉でいっぱいだが、春には1000本を超える桜が花をつけるとのことである。

さらに川まで行くと水門や特徴のある橋なども見る事ができる。涼しければゆっくり眺めたい風景である。







宿場町を歩く〜幸手宿③

2022-08-20 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その13。幸手宿③、アベ洋品店の向かい側には幸手観音堂看板。荏柄山満福寺、子育て安産の観音様のようである。境内に入ると寺の説明板はあるが、字が消えかけて殆ど読むことができない。



後で調べると真言宗の寺院で開山は1489年、本尊は不動明王、左手の観音堂には聖観世音菩薩が祀られている。



少し戻り、左に曲がる。左側に『ときわや』という食堂が見えてくる。残念ながら昼の営業が終わったところで中には入れなかったが、100年以上続く割烹料理屋で幸手宿で8代将軍吉宗が食した料理を再現した『吉宗弁当』が名物。

ときわやを右に曲がり、路地を抜ける。左側に由緒正しい門、門柱には『電話三番』と書かれたホーローの板が残されていた。お宅は新築し、門だけは残されたのだろう。

日光街道に出て少し戻る。飯村医院は今も現役のクリニック。ただ、外から見ると普通の古民家のようである。大阪屋の屋号があり、1923年の建物である。



そのお隣に面白い洋館。NOGCHIDOという店名が掲げられていたのだろうが、今はロゴのIが落ちてしまっている。窓の右二つは割れたのかタキロン波板で塞がれていた。今は廃屋になってしまったのかもしれない。

そのお隣にも古民家、こちらも今は使われていないようだが、保存状態はいい。



関口家店舗は薬屋さん、店の部分もりっぱだが、周囲は黒塀に覆われていて風格がある。角田屋の屋号を持ち、1880年頃の蔵造り建築である。

高浜商事は今も現役の肥料商、1934年建築の立派な商家である。(以下、次回)

宿場町を歩く〜幸手宿②

2022-08-14 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その12。幸手宿②、再び幸手駅入口の交差点まで戻り、日光街道沿いを歩く。角にあるのが小島商店、薪炭商・繭糸商を営んでいる。1937年築の建物は今も現役である。

向かって左手には永文商店、お酒屋さんで外にはなぜか獺祭の樽が置かれている。店の中には荷捌き用のトロッコ『横丁鉄道』がある。

入口をよく見ると『電話三十五番』とあった。猫も杓子も携帯電話を持つ時代とは違い、電話がステイタスだった名残である。

他にも古民家は沢山ある。次の信号のところには竹村家の建物、元石炭商である。



信号の先には小さな公園があり、この辺りに問屋場があったことを示す説明板がある。曲がった2軒目が勤労福祉会館、ここで宿場印をようやく購入することができた。



反対側に渡ると食堂があるが、ここが本陣跡となる。説明板によると『知久家は本陣、名主、問屋を兼ねた宿場では最も重要な役割を果たした家柄であった。』とある。



角を右に曲がると古い商店、看板の塗料も全て落ちていて名前も読めないが、真ん中は『彦』という字のような気がする。本屋さんかな、薬屋さんかななどと勝手に想像する。

左手に洋品店、アベ洋品店と書かれた店、新しい方も今は営業していない様子。その左横に元々の店舗。こちらもシャッターが下りているが、立派な店舗である。(以下、次回)


宿場町を歩く〜幸手宿①

2022-08-10 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その11。幸手宿①、今回は杉戸宿のお隣、幸手宿を歩く。日本橋から数えて6番目の宿場であり、日光街道の脇往還で将軍の日光社参専用道である『日光御成道』(中山道本郷追分〜岩淵〜川口〜鳩ヶ谷〜岩槻)との合流地点にあたる。


幸手駅は大手町駅から半蔵門線・東武日光線で1時間強、東武動物公園駅から2つ目。駅のホームに立つと目の前に今後開発される見込みの空き地ばかり見える。



ただそれは西口。町の中心は東口側で幸手市観光協会が行っている貸自転車(1日400円)を借りることにする。本来は歩いて回りたいのだがあまりの暑さに少し日和る。



自転車で駅前の道を行くと日光街道との交差点に出る。向かい側に大きな古民家が見えてくるが、これが国登録有形文化財の岸本家住宅母家である。古民家カフェも併設されているが、残念ながら休館日で中には入れず。何となくどの古民家カフェにも振られている気がした。



岸本家は元醤油醸造業を営み、上埜屋の屋号で1900年パリ万博に出品、銅メダルを獲得をしたことがある老舗である。
向かい側には明治天皇行在所跡の石碑。明治9年(1876年)6月奥羽巡幸の際、またその後の2回の行幸の際のもの。宿泊は元本陣の知久屋であった。



先には神明神社(田螺不動尊)、江戸時代には高札場も設けられていた。田螺不動尊の由来は幕末、地元に住む小林善平が眼病を患っていた。何とか治したいと思っていた時に夢枕に成田不動尊が立った。善平はその勧めに従い、越後の菅谷寺に参詣すると不思議なことに眼病は完治した。



小林はこのことを岸本に話し、2人で神明神社の中に成田不動尊を造ったところ眼病に効くと民衆の信仰を得た。その方法は田螺の描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというものである。

また、田螺不動尊の案内板の隣に灯籠の基礎の石があるが、側面に『不』の記号が刻まれている。これは几号高低標といい、明治7年東京〜塩竈間でイギリス式の測量が行なわれた際に設置されたものである。



さらに行くと橋が見えてくるが、倉松川にかかる南橋、その先の交差点は右から日光御成道が合流してきている。また、この辺りが幸手宿の南端である。(以下、次回)





宿場町を行く⑩〜杉戸宿③

2022-07-19 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その10。杉戸宿③、旧日光街道を元に戻る。中心街である本陣跡付近には古い商家が残っている。2軒並んでいて左側が提灯屋さん。他に花輪や傘なども扱っているが、こちらは現役。



お隣は保健事務所らしいのだが、『◯本◯険事務◯』と看板の字が落ちてしまっていてわからない。こちらは青いシャッターが降りていた。

本陣前交差点に面している銀行の前には『明治天皇小休所跡』、行幸の際にここで一休みしたのであろう。



このあたりに問屋場があり、その先には脇本陣・本陣が並んでいたと思われる。ただ、私有地のために中に入ることはできない。

角には花崗石で作られた道標、関宿方面・粕壁方面と彫られた字は読むことができる。その先が本来の高札場、街道が交差するこの地点に本来はあった。



またまた、古民家が現れたが、隣には小さく『板ガラス』の看板のついた部分がある。なかなか珍しいタイプである。建物横に説明板があり、『渡辺金物店跡』とある。ここでは月に1度地域交流会が開かれている。

反対側に2軒。手前は『園芸用資材、農業用資材』の看板がある。お隣は看板からお米屋さんだろう。どちらも渋い造りで現役またはつい最近まで現役だったと思われる。



街道が少し右にカーブするところに大きな蔵を併設した古民家。説明板によると『角穀跡・小島定右衛門邸』と書かれている。昔は表の蔵以外に2つ蔵があり、元は米穀問屋で日本橋の商家とも連携していた。



蔵も立派なものであり、しげしげと見入ってしまった。



さらにその先には渡辺勘左衞門氏の邸宅。庭も広く、規模の大きさに圧倒された。向かいに古民家があるが、この辺りまでが杉戸宿だった。



宝性院という立派なお寺の横を入って行き、次の道を左に曲がると『愛宕神社』、説明板によると創立は1705年、杉戸町の鎮守の一つでまた火伏せの神として信仰されている。



この前の道を左に歩いて行くと東武動物園前駅から来る通りにぶつかる。その交差点にはレトロな洋品店。子供の頃にはどの町にもあった店だが、UNIQLOやしまむらなどにより、今では珍しい存在である。ここから駅までは歩いて5分とかからない。