監督ピーター・ボグダノヴィッチ 原作ラリー・マクマートリィ
1951年、テキサスの、さびれた小さな町。まもなく高校を卒業するサニー(ティモシー・ボトムズ)とデュエーン(ジェフ・ブリッジズ)。二人とも片親の彼らは、この町唯一の映画館のオーナーである“ライオンのサム”(ベン・ジョンソン)を慕っていた。サムも、面倒をみている知的障害をもつビリー(サム・ボトムズ)を可愛がっている二人に目をかけている。
デュエーンは金持ちの娘ジェイン(シビル・シェパード)に夢中だが、彼女の心は定まらない。サニーはひょんなことから高校のバスケットボールコーチの妻(クロリス・リーチマン)と関係をもつようになる。
サムの急死により、小さな町は二人にとって急速に息苦しいものに。デュエーンは軍隊に入り、朝鮮戦争(正確には警察行動、でしたか)に出征することになる。その夜、廃業する映画館では、最後の映画(Last Picture)「赤い河」が上映された……。
アカデミー賞をとり(助演女優賞クロリス・リーチマン、助演男優賞ベン・ジョンソン……渋い)、キネマ旬報ベストワンに輝く映画だというのに、実は初めてみた。でも、そんな気がしないのは高校時代に原作(ハヤカワ文庫)を読んでむちゃくちゃに感動していたからである。かえってそのことで映画化作品に臆病になっていたのかもしれない。
しかし、それは杞憂だった。クラシックの名に恥じない名作。高校卒業を控えたスモールタウンの若者たちのお話、とくれば「アメリカン・グラフィティ」を思い出さないわけにはいかないが、あの作品と同じように、若者たちはセックスに悶々とし、保守的な田舎の生活にいらついている。当時のポップス(ロックンロール誕生のはるか前)をのべつまくなしに流す手口までいっしょである。もっとも、アメグラと違い、モノクロであることもあってか印象はずっと暗いし、R指定だから性描写も露骨。うれしいけど。
撮影中に監督ボグダノヴィッチとシビル・シェパードが不倫関係に走ってしまったので(これは有名な話。後に結婚。で離婚したんじゃなかったか?)、現場は大変だったろうと思ったら、DVD特典映像によると、俳優たちはみんな「いい映画になる」という予感で燃えまくっていたらしい。確かに、この映画の俳優陣の演技には凄味すら。
第一、主役の若者たち(ほとんどがこの映画でデビュー)やオスカー受賞組はもちろんだが、アイリーン(「スティング」)ブレナンやらエレン(「エクソシスト」「アリスの恋」)バースティン、ランディ(「ミッドナイト・エクスプレス」)クエイドなんて連中は、70年代に映画館で血を燃やした世代には、たまらない名だ。
そしてラスト、原作でも涙したのだが、映画でも同じように、いや、俳優たちの名演のためにそれ以上に泣けるシーンが連発する。不倫の行方と、ビリーの死。いやはやこれは泣ける。女房子どもが実家に帰っている日に見てよかった、とつくづく。
そしてわが酒田にもLast Picture Showは近づいている。
“東北一の劇場”に幕
映画館「酒田港座」114年の歴史 来月14日最後に
1887(明治20)年に開館し、芝居小屋、映画館として百十四年間、市民に親しまれてきた酒田市日吉町一丁目の酒田港座が閉じることになった。建物を借り受け、映画館を経営している宮崎合名社(山形市)が来年1月14日の営業を最後に閉館することを決定。ビルを所有する不動産会社によると、その後の利用法の見通しは立っていないという。
酒田市史などによると、港座は、地元の興行師が芝居小屋として建設。当時は、回り舞台や花道などがあり、歌舞伎も上演された。千人を収容でき、「東北一の劇場」と言われたという。その後、経営者も何度か替わった。
宮崎合名社が借り受けたのは1993年3月。三つのスクリーンで上映してきた。閉館の理由について、三川町のイオン三川ショッピングセンター内に、複合映画館がオープンしたことなどを挙げ、「市場環境の変化に対応し、庄内地区の営業を再構築する必要があると判断した。賃貸の港座を閉め、効率的な体制にする」としている。
酒田市内には自社物件の酒田シネマ旭(2スクリーン)があり、鶴岡の鶴岡シネマ旭(3スクリーン)と合わせ、中心部で手軽に映画を見たい、というニーズにこたえていく考えだ。
2001年12月19日付山形新聞朝刊社会面
……来るべきものが、来たのか。
徹底して合理的、かつ快適なシネコンに観客が流れることは無理からぬことだし、昔の色街に立地しているために、駐車場が10台ぐらいしか取れないのは致命的だったということだろう。しかし古臭く、センチメンタルといわれようが、やはりさみしい。シネコンは結局のところ、小売業界に興行が奉仕するという側面は否定できないし、悪所であったはずの映画館から、その不健康さを抜き取った味気なさはどうしても……。
子どもの頃(まだ日本映画がかろうじて洋画よりシェアが上回っていた時代)は
洋画=グリーンハウス(名画座シネサロン併設)
東宝・松竹=港座
東映=中央座(「愛のコリーダ」の号参照)
日活=大映(いわゆる“大人”の映画館。なぜか昔はディズニーも)
これが10万都市酒田の興行地図だった。今度の閉館で、その全てが姿を消すことになる。港座は特に東宝の封切館だった印象が強く、建て替え前の(確かに千人は入ったろう)二階席有りのどでかい劇場には、専属女優だった浜美枝や司葉子の美麗なポスターが常に貼ってあった。おそらく私が体験した一番最初の映画は、父親に連れられてここで観た「ゴジラ・エビラ・モスラ/南海の大決闘」(’66)ではなかったかと思う。つまり、私にとっての、最初の映画館だったのだ。その大劇場で「七人の侍」を(もちろんリバイバルだが)観た経験は、私の一生の宝だ。
港座のラストショーは、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃」になる模様。正月に、息子を連れて行こう。
かつて、私の父親がそうしたように。
多くの酒田市民が、そうしてきたように。
【2001年12月の寒い夜に】
※そしてなんとなんと、港座再建計画につづく。