先日、法専寺の仏教壮年会総会でした。総会に先立ったいつもの勉強会で出た質問。
「どうしても、『そのままで救われる』ということが、納得できません。人間、良い方向に行くためにジタバタしながらも努力して生きていくことが尊いのではありませんか
」
生真面目な某氏ゆえ、
「そのままで」ということを、向上心のない「努力放棄」「怠惰」「なげやり」という意味に受け取られている。
住職が
「そのまま」ということは、決して、何もしない「努力放棄」では、ないこと。
良いことができるなら、良いことをするに越したことはないが、その「良いこと」は、案外、自分のため ではないのか
人のために良いことが完遂できるのか
自己中心を離れられない私たちの成す言動は、浄土とは相反して地獄行きではないのか
そんな私の有り様を見越して、阿弥陀如来が「そのままで救う」と誓い、私を覚らせようと願ってくださっている
その阿弥陀さまの「本願」(私を覚らせようと誓い、願われていること)を本当に有り難く思えば、
力の入った私の努力ではなく、力の入らない自ずからの言動になる。
私にできることをさせていただこう
私は、私のいのちを精一杯生きてゆこう
と。
そう言う主旨のお答えをしておりました。


生真面目な某氏ゆえ、


住職が

良いことができるなら、良いことをするに越したことはないが、その「良いこと」は、案外、自分のため ではないのか


自己中心を離れられない私たちの成す言動は、浄土とは相反して地獄行きではないのか

そんな私の有り様を見越して、阿弥陀如来が「そのままで救う」と誓い、私を覚らせようと願ってくださっている

その阿弥陀さまの「本願」(私を覚らせようと誓い、願われていること)を本当に有り難く思えば、
力の入った私の努力ではなく、力の入らない自ずからの言動になる。
私にできることをさせていただこう

私は、私のいのちを精一杯生きてゆこう

と。
そう言う主旨のお答えをしておりました。