仏法を聞き続けたら、マシな人間になるか
と尋ねられたとしたら、
「とんでもない 他人様のことはわかりませんが、私は、マシな人間になんぞ、なっていません」
仏法を聞かせていただくことで、気づかされることは多いのですが
それは 私の性根(心の症状)のお粗末さの「自覚」であって、私の性根がよくなる(心の病巣が消滅する)なんてことはありません。
親鸞聖人の御和讃(ごわさん:漢文でなく和文で書かれた仏さまを讃える詩)に
浄土真宗に帰すれども
真実の心ありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
これは、親鸞聖人86才の時に書かれた和讃です。
仏さまに相対して、初めて気づかされる「凡夫」の自覚。
「マシな人間になれる、いつも心穏やかであり続ける」なんて錯覚を打ち砕かれる
キレイ事でない、ホンネの苦悩に寄り添う「救い」が
南無阿弥陀仏でございましょう。
その場、その場の感情に心コロコロ、まさに、私のための仏の教えです。
と尋ねられたとしたら、
「とんでもない 他人様のことはわかりませんが、私は、マシな人間になんぞ、なっていません」
仏法を聞かせていただくことで、気づかされることは多いのですが
それは 私の性根(心の症状)のお粗末さの「自覚」であって、私の性根がよくなる(心の病巣が消滅する)なんてことはありません。
親鸞聖人の御和讃(ごわさん:漢文でなく和文で書かれた仏さまを讃える詩)に
浄土真宗に帰すれども
真実の心ありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
これは、親鸞聖人86才の時に書かれた和讃です。
仏さまに相対して、初めて気づかされる「凡夫」の自覚。
「マシな人間になれる、いつも心穏やかであり続ける」なんて錯覚を打ち砕かれる
キレイ事でない、ホンネの苦悩に寄り添う「救い」が
南無阿弥陀仏でございましょう。
その場、その場の感情に心コロコロ、まさに、私のための仏の教えです。