お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

「救われる」

2015年07月30日 | 仏教
 先日、大阪のある真宗専門学校(僧侶を目指しておられる方々、もしくは、僧侶で、学問を深められる方々対象)で、教えておられるA先生が、学生さん方に、

 (法話などで)簡単に「救われる」という言葉を使うけれど、

「救われる」とは、どういうことなのか 
「救われる」という言葉を使わずに 説明せよ という 課題を出されたそうです。

 お寺に生まれ育った方、篤信のお宅で育たれた方、聴聞を重ねられた方々にとっては、当たり前、何を今さらの「救われる」と言う言葉(仏教用語)ですが、

 若い頃の私のように、仏教に疎い者にとって、「阿弥陀如来に救われる」と、聞いても、何のことかわからないし、違うことをイメージします。
 
 たとえば、一生懸命、阿弥陀さまに祈願することで、
自分や家族の病気が治ったり、家庭内の諸問題が解消したり・・・つまり、自分の悩みが解消される(自分に好都合な状態になる)ことが
「救われる」という意味だという誤解。

 その大きな誤解により、一大事を聞き誤ることになります。
 
 または、現世は、どうしようもなく辛いけど、死後、地獄に落ちず、極楽世界に行けて、お気楽ハッピーエンド、めでたし、めでたし
みたいな、誤解も、あります。 

 仏教で「救われる」とは、究極的には、覚りに至る(智慧と慈悲を完璧にそなえた仏になる)ことです。
 しかし、覚りに至る なんて、自分でできることではありません。(自分でできる と、思う人は、自己満足に過ぎません)
いや、仏になりたい と、思える人は、すばらしい、大方は、「仏に成りたい」 なんてこと、思いもしない  のが、私です。

 1,自分は、真実(法)とは、かけ離れた、自分中心の物の見方、感じ方しかできず、縁によっては、心コロコロ。自分に不都合なことは周囲のせいにし、自分に好都合なことは、自分の手柄にしたがる。とてもじゃないが、覚りの境地に、ほど遠い存在である と、気づかされること。

 2,そんな私をも見捨てず、「あなたを覚りに導きましょう」と願っておられるのが、覚りを得、覚者となられた仏 の、大いなる願いである と、気づかされること。

 1,2に気づきによって、私の心が転じられ(今までの自分中心だけの思考回路に、仏さまを意識した思考回路が加わり)
幾分、やわらかな心に恵まれる。そして、自分に不都合なことも、何とか乗り越えて、強く明るく生きぬく人生をめぐまれる。 

 それが、現世で「救われる」ことなのだと、味わっております。

 
コメント
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