ロシアに行った。サンクトペテルブルグとモスクワ。パックツアー。費用は20万円ちょっと。生まれて 大人になって二度目の海外観光旅行。
■猫たちが食い尽された街、サンクトペテルブルグ
―サンクトペテルブルグ猫と目があった瞬間―
▽1945年春、サンクトぺテルブルグ、当時の名はレニングラードには一匹の猫もいなかった。すべて食い尽されたからだ。ドイツ軍に包囲されたレニングラードの住民は1941年9 月8日 - 1944年1 月18日の間約900日籠城した。その間に公称67万人、実際には100万人が死亡。大半の死因は餓死(wiki:レニングラード包囲戦)。人の屍を食べたくらいであるから、犬、猫はまっさきに食べられた。恐ろしい話である。廣島や東京のように核攻撃や無差別空爆で一日で十万人以上が死ぬよりある意味恐ろしいと言えるかもしれない。なぜなら、みんな腹をすかしながらゆっくりと死んで行くからである。死は無差別にやって来たわけでなない。みんながただ黙って死んでいったのであればまだ"まし"かもしれない。なぜなら、現実の飢餓地獄では生きてる人間を殺して食ったやつもいたらしいから。
▼サンクトペテルブルグで泊ったホテルは郊外。周りには集合住宅。ちなみにサンクトぺテリブルグ、そしてモスクワの市街には一戸建ての家はない。朝散歩がてらに猫の探索。正確にいうと猫を探すために散歩。いた(上画像)。ロシアンブルーの野良とかがいればおもしろかったのだが、当然いなかった。この白黒ねこの先祖は戦後どこからかきたのだ。田舎ねこの血統に違いない。
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■エルミタージュ参拝
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▽「900日のレニングラード攻防戦」の間、ダヴィンチからピカソに至るエルミタージュの貴重作品群はウラル山脈のシヴェルドロフスクに疎開した。シヴェルドロフスクはソ連時代の呼称で、今は帝政時代の名、エカテリンブルクが復名。ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世がボルシェビキに殺害された街。
包囲の前にウラル山脈のシヴェルドロフスクに逃れ、再び猫たちが食い尽された街の展示に復帰したのは、ティントレット(wiki)の『洗礼者ヨハネの誕生, The Birth of St. John the Baptist 』の中の猫。イタリア生まれ。"シベリア送り"から生還。
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―『洗礼者ヨハネの誕生, The Birth of St. John the Baptist 』、エルミタージュ美術館展示―
―上記『洗礼者ヨハネの誕生, The Birth of St. John the Baptist 』の部分図―
■そして、ドストエフスキー
▽『洗礼者ヨハネの誕生』の猫も"シベリア送り"からの生還したが、ドストエフスキーもそうだ。サンクトぺテルブルグはドストエフスキーの街。愚ブログもこの世に猫と『地下生活者の手記』がなければありえなかったであろう。なぜなら、おいらは病んだ人間であり、意地の悪い人間で、およそ人好きのしない男だからである。肝臓だって悪いに違いない。この前の健康診断でも、ガンマ― GNPだか何だかだって高い値だった。まちがいない。
ドストエフスキーの"ツッコミ"について言及するまえに、まずはピョートル大帝とエカテリーナ2世の"大ボケ"をおさらいしよう。サンクトペテルブルグは300年前にロシア皇帝ピョートルがゼロから作った人工都市である。ヨーロッパのハードコピーである。技術者、設計者をヨーロッパで集めロシアに連れ帰り年建設を行う。ロシア人は土方仕事の消耗品。ピョートルのお手本。
これは400年前に同じくゼロから江戸を作った徳川家康と似ているかもしれない。しかし、自分で考えて江戸を作った家康と既存の高度な文明を人ごとパクッてきたピョートルとでは自発性、内発性が違う。
その50年後ピョートル大帝を舅とするドイツ人女性エカテリーナ2世は欧化政策を邁進させ現在に続くエルミタージュの美術品コレクションを始める。かわいそうにエカテリーナ2世。ロシアには皇帝お抱えの絵師がいなかったのだろうか?
こうして、サンクトペテルブルグには今に残るヨーロッパ正統派の建築物が整然とならび、そのひとつの王宮、冬宮の宮殿がエルミタージュ美術館。
とまれ、ピョートル大帝とエカテリーナ2世(大帝)はいわゆる啓蒙専制君主ってやつだ。
▽啓蒙専制君主ほどうさんくさいものはない。その矛盾は複数ある。ひとつは啓蒙という良い?目的のためには専制という手段を選ばないことをとがめられないこと。エカテリーナ2世は夫のピョートル3世を追放し、愛人とのクーデターで皇帝となった。追放された夫は"都合よく"すぐ"病死"したと発表された。目的のためには手段を選ばずという陰謀・権力政治の真髄を地で行っている。この体質はヴォルシェビキや最近のプーチンに至るまで変わらないなぁ~というのがおいらの偏見的印象。
さらにはいくら皇帝がヨーロッパ風の建物を作ったり、美術品、<>を集めても、大半のロシア人は農奴である。あるいは都市に流れ着いた"虐げられた人々"である。
ドストエフスキーは『地下生活者の手記』で水晶宮についてつっこみを入れる。この水晶宮とは例の水晶宮とドストエフスキーに呼ばれた、同時代の革命的民主主義の思想家チェルヌイシャフスキーの小説『何をなすべきか?』に出てくる未来の社会主義社会のことらしい。
でも、今回おいらが気付いたことは、ドストエフスキーが生きていた時代(1821-1881)にはすでにサンクトぺテルブルグは水晶宮都市であったのだ。ただ、ドストエフスキーたち貧民はサンクトぺテルブルグの非水晶宮地域で、水晶宮群を見ながら生活していたのだ。
ドストエフスキーは将来に起こるべきとされる民主主義へも嫌味を吐くが、その理性や進歩への懐疑となった根拠は、ピョートル、エカテリーナ2世以来の"近代ロシア"の成り立ちの一切がペテンであると感づいたからでなはいなかと、おいらは今回のピーテル訪問で思いついた。
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― ロシア史上初めての共和国を象徴する旗と共産党旗とドストエフスキー ―
ドストセンセのお墓にて(アレクサンドル・ネフスキー修道院)
現行ロシア共和国制は過去を全否定するわけでないらしいこと、すなわち共産党の存続を認めていることを見ると、すこしは"大人"になったのかなぁと思う。
でも、プーチンの魂の故郷は共産党なのかもしれない。大侵略―2010年、ソ連(ロシア)はユーラシアを制覇することができるかな?