いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

あなたは発破師でもあります、あるいは、花火師は絵コンテを予め描くのだろうか?

2010年10月03日 09時08分46秒 | 筑波山麓
―言いわけめくが、訳語について一言だけ付言しておきたい。本書の標題にも出てくる Wissenshaft を拙訳ではその場に応じて「学」「学問」「科学」と訳し分けた。こうした基本的用語には同じ一つの訳語を当てるのが望ましいのであるが、ドイツ語の Wissenshaft が豊かな含蓄をもっているのに対して、日本語のこれらの言葉はそれぞれにかなり限られた意味とニュアンスをもっており、そのいずれかですべての場合を蔽うことがむずかしかったからである。―
フッサール、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の訳者・木田元による"解説"より



-思いっきりブレています。昨晩の土浦花火大会-

昨晩は土浦の花火大会。正確には「土浦全国花火競技大会」。夏場に全国で行わる普通の花火大会との違い、花火業者が作品を披露するのが目的らしい。特に、創造花火というのがあるらしい。⇒主催者サイト

おいらは、筑波山麓に来て10年ちょっとになるが、おとなりの土浦のこの花火大会を、見に行ったことがなかった。混雑がすごくて、近づけないんだよ、という言葉を真に受けていたためかもしれない。昨晩は土浦郊外の高台に展望ポイントを発見。はじめて、見た。

↓昨日の今日で、YouTubeに映像があった。昨晩のものらしい。

ワイドスターマイン「土浦花火づくし」2010土浦全国花火競技大会


花火師は絵コンテを予め描くのだろうか?

闇夜に輝く色彩と光輝は上のYouTubeでどうぞ。ところで、花火のあの多彩強輝は、スイカのような玉に込められた金属だの酸化物だのそして火薬が構造的に仕込まれたものが発現する結果だ。本質は現象する!。だから花火職人の仕事とは、端的にはこの炎燃材料と火薬の構造体をつくりこむこと。でも、どうやって創り込むのだろう?

花火師は、薬剤と火薬の玉における配置で、空で発現する花火を制御するのです。すごいですね。これには、当然、設計方法があるんでしょう。花火設計法。そして設計するならば、お空に現象する花火の描像をあらかじめ想定して、その描像実現のために薬剤と火薬の玉における配置を設計する。そしてその設計に従って薬剤と火薬を実装する。つまり、花火師は絵コンテを予め描いているに違いありません。でも、見たことないぞ、花火師の絵コンテ。

■『わたしは花火師です』

 
―インタビュアー―それではあなたを哲学者とお呼びすべきでしょうか?
 それも違いますね。わたしがやっているのは、いかなる意味でも哲学ではありません。科学でもありません。科学であるとすれば、その根拠と証明を要求することができるでしょう。誰もが科学に、それを求める権利があるのです。

―それではどうお呼びすればよいのでしょうか。
 わたしはいわば花火師(アルティシフィエ)です。訳注*1 わたしが作りだしているものは、結局のところは占領と、戦争と、破壊に役立つものです。わたしは破壊することが好ましいとは考えていません。それでも私は通り抜けること、前に進めること、壁を倒せることは好ましいと思っています。

ミッシェル・フーコー、『わたしは花火師です』(中山元・訳、Amazon

フランス語のartificerが覆う意味内容の範囲は、花火師から戦場で爆薬を仕掛け爆破させる技術者までと広いらしい。上記の部分の文脈で考えると、軍事発破師の意味だろう。訳者は書いている;

訳注*1
フーコーが以下で掘削と攻城について語っているところからみて、ここで花火師と訳したアルティフィシエという語は、あるいは軍隊の「爆破技師」と訳すべきかもしれない。ただしどちらも基本的に仕事の内容は変わらないし、本書の一七ページでフーコーは自分の書く書物が「爆弾のように効果的で、花火のように楽しい爆発物となること」を夢見ると語っているので、あえて花火師という訳語を採用した。

「どちらも基本的に仕事の内容は変わらない」かは理解できないが、翻訳の難しさがよくわかる事例だ。訳者はフーコーのきらびやかな業績に目を奪われていたので、花火師として表象することに駆られた。一方、フーコーの業績は思想史業界でのブレイクスルーであるから、発破師という訳がいいだろうと思うかもしれない。つまりは、これまで誰も掘削することができなかった切り通しを、発破(wiki)によって、作り上げたのだ。蛇足ながら;ところで、一段メタレベルがあがって、なぜ、フーコーがこの発破が出来たかというと、それはハイデガーの発破があったからに違いない。ハイデガーに 狂じていたフーコー!。同様に、ハイデガー⇒ニーチェ。

でも訳さなければそれでいいのだ、artificer !

たまに電車に乗ると、高校生が単語帳で英単語をバカ暗記しているのを見る。つまり、ひとつの英単語にひとつの日本語の意味を対応づけて暗記しているのだ。この方法は文法訳読法に不可欠な要素的方法だ。

この方法の根源的危うさは外国語学習初心者に、言葉というのは、異なる言語の間で、例えば日本語と英語の間で、対応しているのだ無意識に思い込んでいることだ。ある言葉が網羅する範囲・しない範囲は、その言語によって違う。上記の Wissenshaft や artificierのように。すべての単語がそうである。そして、その言葉の網羅する範囲・しない範囲は、その言語の"イデオロギー性"・"文明的背景"に依存する。あるいはもっと即物的にその言語を使う人たちの生活環境に左右される。エスキモー・イヌイットが雪に関する言葉をたくさんもっていることや、日本人がワカメだのコンブだのノリだの、あとヒジキ、モズク、テングサなど、海藻に関する言葉をたくさんもっていることはよく指摘される。英語じゃ日常語ではseaweedの一語らしいよ。

したがって、「どちらも基本的に仕事の内容は変わらない」と感ずる上記訳者は相当フランス語分節化作用にいかれているということだ。だって、大勢が集まって集ってうれしく見る色彩火薬燃焼現象を実現させる仕事と、地形や施設やあまつさえ人間をも瞬間的な火薬の燃焼で吹き飛ばす事象を実現する仕事が「どちらも基本的に仕事の内容は変わらない」のかねぇ~?。

ところで、一対一対応の英単語の覚え方をしていると、いつまでたっても実際の英語が使えない。頭のいい人は日本語で作文して、脳内で日本分⇒英文の翻訳変換を行う。それではよっぽど変換効率のよい頭でないと処理できないと思う。だから、英語を英語として学んで、英語の運用を習得しないといけないという考えが生じる。そういう考えに基づく学習法が"非文法訳読法"らしい。

一方、文法訳読法は非常に便利なのである。そのおかげで、多種の外国語の膨大な翻訳を日本語人は読むことができるから。でも、翻訳ってすごく難しい。