いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

バブルのあとさき; 佐藤文隆、『職業としての科学』

2011年01月30日 18時05分24秒 | ぐち

―科学技術や高等教育の業界の外ではあまり認識されていなかったようだが、日本では一九九五年に「科学技術基本法」という法律が成立し、一九九六年以降、五年ごとに「科学技術基本計画」という財政支出の目標金額を掲げた振興策を定め、科学技術関連予算の増額を図ってきた。科学技術基本法は議員立法であった(中略)。この政策の推進者は通産官僚上がりの自民党代議士(当時)尾身幸次であり、震源地をただせば一九八〇年代の日米貿易摩擦や冷戦崩壊後を見据えたアメリカの科学技術政策の変更であった。― 佐藤文隆『職業としての科学』


-A day in my life across the death valley. 足軽雑兵がみた総大将、2006年-


―バブルのあとさき―
『科学と幸福』初版1995年 (Amazon
(ポスドク1万人計画 1996年~2000年、wiki)
『職業としての科学』2011年 (Amazon

三十前で『科学と幸福』を読んでいた頃、まさか、四十過ぎて、death valleyでバイトしているとは思わなかった。上記尾身センセを目撃した時はすでに「業界」からは足を洗って、death valley稼業に励んでいた。「役に立つ」ものを作って「お金」に変えなければならない。その「役に立つ」ものの展示会という場で潜在顧客に宣伝する。その展示会に律儀にも科学技術利権グループのドンである尾身幸次センセが御出馬され、"謁兵"されたのだ。足軽でお調子者のおいらは自分の展示ブースをほっぽらかして、デジカメを撮りにいったのだ(その日の記録;成均館大学校に遭う。 )。

ところで、おいらは、四十過ぎて、death valleyでバイトしているとは思わなかったと書いた。尾身センセも、財務大臣までやったのに、選挙に落ちて引退することになるとは思ってもみなかったであろう。やはり、一寸先は闇なのだ。でも、安穏とした食税役人どもの高笑いが聞こえるのはひがみによる幻聴か?

以下、佐藤文隆、『職業としての科学』を読んでの思いつきメモ;

■『職業としての科学』って、ドイツ語に訳すとWissenschaft als Beruf。これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』と同じ、Wissenschaft als Berufとなる。つまりは、学問と科学の間を語りたいのであろうか?

― 言いわけめくが、訳語について一言だけ付言しておきたい。本書の標題にも出てくる Wissenshaft を拙訳ではその場に応じて「学」「学問」「科学」と訳し分けた。こうした基本的用語には同じ一つの訳語を当てるのが望ましいのであるが、ドイツ語の Wissenshaft が豊かな含蓄をもっているのに対して、日本語のこれらの言葉はそれぞれにかなり限られた意味とニュアンスをもっており、そのいずれかですべての場合を蔽うことがむずかしかったからである。―
フッサール、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の訳者・木田元による"解説"より  拙記事

1995年の『科学と幸福』の時からマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』に言及している。

 道徳的響きの「学問する」に愛着を持つ私はマックス・ウエーバー著の『職業としての学問』なる表題が気になった。もしかしたら「学問は職業に就く知識だ」などといっているのではないだろうにね、と思ったからである。もちろんそんなことはなく学問と人生の価値観に一定の距離を置くこと、人間が学問に呑みこまれないようにすること、などを呼びかけているのだと読んだ。科学者について当てはめれば私はこれは、「坊主か?職人か?」という問いかけと読んでいる。  佐藤文隆、『科学と幸福』

「坊主か?職人か?」という意味は、坊主とは世俗の知識でない聖なる真理の探究者の象徴であり、職人とは文字通り生活で役に立つ技術を発揮する人の象徴である。

「坊主でもなく、職人でもなし」;

食税研究者サマの少なからずは「坊主でもなく、職人でもなし」という皆みなさまである。お貴族サマなので、坊主でもなく、職人でもないというのは、当然と言えば当然なんですが。

科学技術立国の政策理念を利用(悪用)して、何の役にもたたない技術、実現する目途がない技術、できたらそりゃすばらしいが絵空事の技術に政府予算を注いでいる。さらには、目標が何だかわからないというのまであって、驚愕ではある。

佐藤をして『職業としての科学』を書かせたのは、1996年の『科学と幸福』以来の中長期的日本科学技術ウオッチングばかりではなく、去年の事業仕分けの衝撃に違いない(愚記事;①宇野弘蔵と蓮舫、②やはり、陶酔権干犯問題だった。 )。そして、いわゆる過剰博士問題も動機のひとつだろう。

リスキーな職業選択業界の信用度悪化という項目で言及している。

 ところが現実には、研究者の増加に見合う安定的ポストは増えずに、任期付きの流動的研究員の増加や時限付きの組織の数が急増したのである。数少ない上位のポストを目指す競争の期間が長期化して、過労ともいえる状態を甘受する事態が蔓延している。(中略)
 こうした事態が続けば、まさに科学研究という業界の世間からの信用度はがた落ちとなるでしょう。賢明な親は子弟のこんなリスキーな職業選択に不安をもつだろう。 


■佐藤はこういう状況を考える参照枠(reference)として歴史を考える。あるいは、メタ科学。でも、科学の理念を考えるという方法は放棄している。理念ではなく歴史。事例研究か? たとえば、プランクVSマッハ、あるいは、クーンVSポパーという事例で、「坊主か?職人か?」、つまりは「何のための科学か?」を考える。

■でも、今の食税科学研究者は歴史意識なんてもっていない。佐藤は「生みだした思想なしでやっていける科学」と題した項で、広重徹を引いていう;

 広重徹は「二〇世紀の自然科学は、大局において思想なしでやっていける科学になっていた」のであり、「一九世紀のあいだに科学は、それを生みだした思想的なものをはなれ、どこでも誰にでも使うことのできる、道具的なものに変貌していった」し、またそうなることによって、科学は技術と結びつき、経済・政治・社会・文化のなかでメジャーな存在になったのである。

でも、生みだした思想は不要でも、いや不要だからこそ、維持費は必要だ。だから彼らはノーベル賞受賞者を先頭に「金出せ!、金出せ!」というのだ。

愚記事参照⇒歴史意識が希薄(=動物=スノビズムとしてのサイエンス⇒とにかく金出せ!⇒すなわち、鈴木宗男)。


■佐藤は長岡半太郎がなぜ日本人が科学?の問題に悩んだことを紹介。これだ⇒捏造の阪大

■佐藤文隆センセの現状認識のずれ。

佐藤文隆センセの現状認識ってどうなんだろう? 物理帝国が輝いていた時代の臣民として君臨していた佐藤センセは、現在が物帝が終焉したこと。バイオ帝国が隆盛していること。それへの過剰期待で法外な予算がつぎ込まれていること。つまり体系的理論が求められない分野が、予算の観点でみての科学の中心に踊りでているのだ。同様なことが材料科学についてもいえるかもしれない。両者の象徴としてiPS細胞と鉄系超電導を看板にJSTが予算確保のプロパガンダを行っていることは周知。くりかえすと、今の科学研究者は佐藤文隆センセの時代や分野の知的、理論的能力とは、良くも悪くも違うのだ。今のそういう分野の研究者の"夢"は一発当てること。頭つかうより金を使って、人海戦術でいきあたりばったり、絨毯爆撃的実験である。そして、実際に社会に役立つか?などいうことの目途なぞたってはいないのだ。そして、たぶん、そんなことに関心なぞないに違いない。もちろん、口先でおためごましは言いますが。実現しなくたって、何の責任もとらなくていいわけです。

つまり、坊主でもなく、職人でもないのだ。

だから、予算が必要なのです。

こういう現状を踏まえてのの本とは思えなかった。
↑まちがい、少し書いてあった。

著者は長く税金で楽しく研究をやってきたが、同業者には半分本気、半分冗談で、「これはお国のためであって、「面白いから」とか「楽しいから」などとは口が裂けてもいってはいけない」といっていた。
(略)
「仲間内の楽しみなら、税金で面倒をみられない」といわれることに気づき、「一〇〇年先には大いに役立つか可能性が・・・」などと心にもないことをいわざるをえないのである。