いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

林芙美子のソヴェート批判;「レーニンを少しばかりケイベツしましたよ」

2015年09月03日 19時25分24秒 | 日本事情

改造社の編集者であった高杉一郎(本名、小川五郎)は昭和19年に36歳で兵隊にとられ、満州へ。村山談話の流儀に従えば中国侵略兵として中国大陸へ、満州国を植民地支配するための侵略軍である関東軍の一員となる。そして、終戦。ソ連軍に囚われ、シベリアで強制労働に従事させられる。1949年に復員。

その改造社の編集者であった高杉一郎が林芙美子について全く言及していなことが愚ブログがもつ謎である。林芙美子は改造社がつぶされるまで、雑誌「改造」に執筆していた(愚記事)。高杉一郎は、シベリア抑留の体験記を復員後すぐに刊行。『極光のかげに』。おそらく当時最初のシベリア抑留の体験記ものではないだろうか?さらには、『極光のかげに』は、その中では明記はされていないが、のち高杉一郎が語るに、高杉一郎は戦前1920年代末から1930年代初頭のインターナショナリズム、共産主義の洗礼を浴びたらしい。そのインターナショナリズム、共産主義を頭で理解していたインテリさまのシベリア抑留の体験記が、『極光のかげに』。この本は、大江健三郎さま、鶴見俊輔さま、加藤周一さま、に評価された、と知って、おいらは、ぎょえっとしたことは書いた(愚記事)。その評価の一端がこれ;

社会主義国家についての現実的な肖像は、一九四五年に日本が戦争に負けてから、はじめて日本人にえがかれたと言ってよい。高杉一郎の『極光のかげに』は、その一つで、長谷川四朗、石原吉郎の文章とともに、戦争の捕虜として、収容所の中からこの社会主義国家を見た記録である。(鶴見俊輔、「解題」『新版・極光のかげに』(冨山房、1977)、太田哲男、『若き高杉一郎 改造社の時代』より孫引き)

シベリア抑留者たちが帰国するまで、ソ連批判がなかったような書きぶりである。

林芙美子がいるではないか!

林芙美子が「ソヴェート」(これは林芙美子がソ連にくれる呼称である)を通りすがりに見聞し、現実を穿ったのは1931年冬、満洲事変とコミンテルン32年テーゼの決定・発表の間の時期である。この時期、あちこちにこのシベリア横断記を雑文として発表するのだが、公開文や私信の中で「ロシヤは驚木桃の木さんしよの木だ」を連発している。林芙美子はロシア革命の現実を見たのだ。1931年にこういう印象を持った。

言葉の通じないせいもありましょうが、全く不思議なインショウになってしまいました。何故なら私の目にはいった露西亜は、日本で知っていた露西亜と大違いだからです。日本の無産者のあこがれている露西亜はこんなものだったのでしょうか?日本の農民労働者は露西亜のおこなった何にあこがれていたのでしょう?――― それだのに、露西亜の土地は、プロレタリヤは相変わらずプロレタリアです。すべていずれの国も、特権者ははやり特権者なのではないでしょうか?その三ルーブルの食堂には、兵隊とインテリゲンチャ風な者が多くて、廊下に立って眠っている者たちの中には、兵隊もインテリもいません。ほとんど労働者の風体のものばかりでした。古い新聞(十一月八日)東京ソヴェート大使館では、お茶の会、ソヴェート友の会があったと云うことですね。貧しい人たちと一緒に汽車旅をしている私には、ちょっとこの記事はカンガイ無量でした。日本人のソヴェート愛好者を集めて、あの白いすっきりした麻布のソヴェート大使館では、茶菓が出て、そうして活動写真が見せられ、列席者、何々氏何々女史等々、――私は妙に胸寒さを感じます。棒のようにつっぱって眠っている寝床の買えない露西亜人たちの顔を私は眩しく見たのですけれど・・・・・。なぜ、ソヴェート大使館では、職場に働いている日本の農民労働者を呼んではくれないのでしょう。何々氏何々女史も結構なことですけれど、この人たちは、プロレタリア愛好者であって、有閑紳士淑女に外ならない名前ではありませんか。―――モスコーの母親へ会いに行くビオニールは何度も手を出して私にパンを呉れと云います。食堂は金を持っている者のためにのみくっついて走っているかたちです。
 だけど、けっして、私は露西亜を悪く云うわけではありません。私はロンドンまで行ってみて、一番好きな人種は、やはり露西亜人でした。

(略)

ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

(林芙美子、「西比利亜の旅」)

私信ではもっと直截に書いている;

ロシヤはこじきの国だ。ピオニールが私に、マドマゼルパンをくれと云ってくる。全く一人の英雄の蔭には幾万のギセイ者だ。五年計画と云うが、十代政治家が変わってもむつかしいだろう。五年計画があんなものだったら、ロシヤは又かくめいが来る。  (11月24日の手紙(封書))

(略)ロシヤは驚木桃の木さんしよの木だ。レーニンをケイベツしましたよ。(略) 11月25日の手紙(封書)

ロシヤは驚き桃の木さんしよの木、レーニンを少しばかりケイベツしましたよ。 (絵葉書)

これを読んで、のちに従軍作家になる林芙美子を、やっぱり根からの反動 野郎 尼なんだ!とお思いの方もいるかもしれない。でも、林芙美子は結構、心情左翼であったらしい。やはり、1920年代から1930年代初頭のモダニズム、アナーキズム、共産主義の影響を暗にうけているのであろう。例えば日記(今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』)にはこう書いてある;

四月六日 (水曜日 mercredi

 (略)夜、今泉、白井氏達と支那めしを食ひ、リラで茶を飲む。二人はプロレタリアートのイデーについてギロン噴出一寸ケンアクとなる。妙に胸が詰つた。帰途雨の中を、三人でモンパルナスの墓を歩む。心よし。帰り二時、途中ポオの怪談が出て来て、かへるのが厭だった。

 四月十五日 (金曜日 vendredi

(略)日本のコンミニスト沢山やられたと云うことだ。ブゼンたるものあり、あゝ皆々元気で仕事をしてゐるのに、私ばかりブラブラ遊んでゐる困ったことだ。
夜チエホフを読む。興に乗らざる事おびただしい。手紙数通かく。(略)

さらには、夫あての手紙にはこうある;

井上さんが殺されたそうだが、英国の平和主義者の与論の間には、「日本は大ヤバン国だ」と非常にゲキコウしてゐる。日支問題があるせいだろう。昨日はtラフアルガル広場で、支那コンミンタンのデモストレーションがあった。日本の浸[侵]りやく主義フアシズムもいいかげんにしないと、カイゼルの徹 [轍] を踏む。外国もそう甘くはない。満洲まではいいが上海は、仲々注目のまとらしい。 (1932年2月14日に書いた手紙)

林芙美子はロンドンに行ったとき、なぜかしら、マルクスの墓に行っている。今、自分がロンドンに行ったとき、マルクスの墓にどうやっていくかという立場になって、ネットで調べてもらえればわかるが、マルクスの墓はそう簡単にいけるところではない。墓地はわかってもその広大な墓地のどこにマルクスの墓があるのか?1932年の情報環境で林芙美子はどうやってマルクスの墓にたどりついたのだろう?おいらは邪推する。左翼の男に連れてってもらったんだよ。

なお、上記4月6日の白井氏とは、白井晟一のことで、林芙美子(人妻)とパリで恋仲であったことは公知となっている(今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』)。その白井晟一は、1932-33年にヨーロッパからの帰途、モスクワに1年滞在、ソ連に帰化しようとしたが叶わず帰国したとされている。帰国後、昭和研究会。

林芙美子は1931年にこう書いた;

ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

そして、高杉一郎は、1956年にこう書いた;

 八月二十三日の朝、私たちはソヴェト軍の命令で、ハルビン市を去り、香坊にむかった。その舗装された坦々たる自動車道路のうえで、私たちは巨大なソヴェトの戦車群とすれちがった。それは圧倒的な、抵抗しがたい印象だった。(略)
 ながい戦車の列がようやくつきてしばらくすると、私たちはこんどはソヴェトの歩兵部隊とすれちがった。隊伍を組んでいるソヴェトの部隊を見るのは、これがはじめてだった。しかし、戦車の場合とは反対に、これはまたひどくお粗末だった。坊主頭(囚人部隊か?)のうえにのっている煮しめた雑巾のようなフランコ帽、よれよれのルパーシカ、破れたドタ靴。背嚢も雑嚢もなければ、飯盒や水筒もない。兵器もてんでばらばらで、私たちがマンドリンと名付けた自動小銃もあれば、剣つき歩兵銃やピストルもあるし、全然兵器をもたない手ぶらの兵隊さえかなりたくさんいる。ヨボヨボの老兵もいるかと思えば、ほんの子供もいる。根こそぎ動員以後の水ぶくれした関東軍よりももとお粗悪ではないだろうかという印象を私はうけた。 (高杉一郎、「関東軍の最後  ひとりの証人として」、『ザメンホフの家族たち』収録)

 林芙美子の眼識をみよ!

● まとめ

「レーニンを少しばかりケイベツしましたよ」と言った林芙美子はスターリンを知らなかったのだ。