札幌南1条西4丁目。昔は(?)ここが札幌の一番の繁華街だった。
( ところで、三越(=三井越後屋![=三井越後屋])とパルコが通りを挟んで対峙しているのは、全国で、ここだけかもしれない。 )
ほとんど生物的といいたくなるような、行動力というよりも衝動力のようなものに促されて、私は万引少年になり果てた。
自分の名誉のためにいっておきたいのだが、悪い仲間に誘われて万引をやったわけではないし、集団万引に加わったこともない。私は独りで万引きをはじめたのだ。札幌の都心に富貴堂という本屋があった。その片隅には、スポーツ用品コーナーまであったのだから、当時としては、洒落た店だったのであろう。そこを中心に、中学二年の冬から三年の冬まで一年ばかり、盗みをはたらいていた。少しずつ大物に手が伸びて、最後には、自分でやったことのないテニスのラケットまで頂戴することになっていった。その間、一度たりとも捕まらなかったのであるから、私の敏捷さはかなりのものであったのだと思われる。
(西部邁、『寓話としての人生』)
万引き学派の話は以前にした。今週の「万引き学派 (愚記事);西部邁に感化された人は多いらしい。あの"偽「リベラル」"狩りの「リベラル」である井上達夫も感化組とのうわさ。 その西部邁の弟子筆頭が佐伯啓思。西部に万引きも教わったのだ。さて、この人[1]はこのときから嫌になったんだろろうか?法を犯してでも獲るべし!ってな学派。
いや、思い出した。三十三歳にもなってから、 自分が一度だけ万引をやったことを。そのころ、東京大学助教授であった私は、娘と息子が立て続いて生まれ、貧乏といってよいような生活をしていた。しかし 私のところにきていた四、五人の大学院生はもっと貧乏で、そばで聞いていると、食べ物についての心配話が多い。で、御茶ノ水の飲み屋に向かう途中、乾物屋 の店先で何点かの食料を万引してみせ、「男たるもの、是が非でも必要なものについては、心配する前に、法を犯してでも獲るべし」と宣うたわけだ。彼らは、 今、あちこちで押しも押されもしない大学教授をやっている。私のなした大学院教育のなかで彼らの記憶しているのはこの件くらいであるらしい。それにたいし て私は、法治と徳治のあいだに深い溝があるということを教えることができただけでも満足だ、と居直っている。 (西部邁、『寓話としての人生』)
▼ その万引き学派の教祖の初期活動場所が、札幌富貴堂だ。その札幌富貴堂は今のパルコがある場所にあったのだ。ここで西部邁は万引きを繰り返していたのだ。もちろん、おいらはこの4丁目交差点の三越の向かいに富貴堂があった時代を知らない。さらには、ここに富貴堂があったことも知らなかった。札幌を離れて、ネット経由だったか、知った。ただし、今から思えばパルコの最上階(付近)には富貴堂があった。つまりは、富貴堂が借りていた土地にパルコができて、その中に富貴堂が入ったのだ。そして、そのパルコの富貴堂も2003年に無くなったとさっき知った。こういう愚記事(次々消えゆく札幌老舗書店、アテネ書房、リーブルなにわ)を書いたが、パルコの富貴堂の消滅はしらなかったのだ。なお、パルコや富貴堂が土地を借りているとなぜいえるかというと、ひょんなことから、おいらは地主さんを知っているのだ。
▼札幌富貴堂について;
本の[冨貴堂]といえば、札幌の老舗中の老舗としてオールドフアンにはたまらない郷愁を感じさせてくれます。冨貴堂書店は、1898年(明治31年)3月 開店し長い歴史を誇って来ましたが、この創業者が中村信以(なかむらのぶしげ)です。中村信以は、1875年(明治8年)1月3日京都府で生まれました が、小学校高等科を中退後、北海道で働くことを決意して北海道に渡りました。札幌では、同郷の藤井太三郎(現在の大丸藤井の創業者)の元で修行を重ね、 1898年3月12日書店を開業しましたが、彼の逞しい努力で北海道、東北随一の書店としての名声を博するに至りました。現在、札幌には大型書店が軒を並 べ激烈な競合を展開していますが、中村信以が作り上げた[冨貴堂]のイメージは燦然として輝いています。信以は、1962年(昭和37年)1月1日、行年 87才の生涯を終えました。
所蔵 札幌市公文書館[喜久の薫]より転載 (リンク元)
■ ループ化する札幌市電
上の画像の反対側の風景。市電の停留所を工事していた。ネットでしらべると、札幌市電はループ化するとのこと。情報ソース:将来の札幌市電。
[1]