いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認

2014年04月13日 13時38分10秒 | 中国出張/遊興/中国事情

― 「はい・・・・この柿は私どもがここに越してきた際に、ふたりで植えたものでございます。老舎は、柿が大好きでした」 
         水上勉、『北京の柿』


― 北京、豊富胡同の老舎故居、2013年10月 ―

  文化大革命開始直後に紅衛兵に迫害されて老舎が1966年8月24日に死んだことが日本にいつどのように伝えられたか調べている(愚記事;老舎の死の日本への伝わり方)。老舎と面識のあった作家である水上勉の『こおろぎの壺』を読んで、水上と老舎の会話を垣間見た。さらにその後、水上には老舎に関する作品があるとネットで知る。『北京の柿』という作品だ。Amazonの中古で買って読んだ。1981年(昭和56年)刊行の単行本だ。その単行本に本のタイトルと同じ「北京の柿」と「こほろぎの壺と柿」が老舎に関する文章だ。

 愚ブログの疑問点だった「老舎は日本に何度来たのだろうか?」(当該愚記事)について;

老舎の来日は生涯1回である。根拠は、長尾光之、阿部兼也、渡辺襄、「仙台を訪れた老舎 : 中国作家代表団来仙時の記録」、福島大学教育学部論集 人文科学部門、36号、1984 (pdf)。長尾光之、阿部兼也、渡辺襄は主張している:「老舎は死の前年、1965年に日本を訪問した。来日体験は一度だけである。」(論文冒頭)

 そもそもこの疑問(老舎は何度日本に来たのだろうか?)が出た理由は、今年3月下旬に、日本経済新聞で明治大学の張競教授の文章。「巴金との付き合いは63年にさかのぼる。その年の5月、巴金や老舎らが東京・豊島区高松町にある水上勉邸を訪れた。」と書いてあったことに始まる。この時、おいらは老舎が1965年に来日していたことは知っていた。だから、1965年とは別途、1963年にも来日していたのかぁと驚いたのであった。そして、おいらは調べたが、老舎の1963年の記録は見つかっていない。

上記の長尾光之らの文献が正しいのであれば、明治大学の張競教授は事実誤認をしていることになる。そして、そうなのであろう。

 
    ― 日本経済新聞 3月23日 紙面より―

もうひとつの疑問が、「老舎の死の日本への伝わり方」である。

この疑問の背景は、次のようなものだ。1971年の報道では「とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らがどうしているのか、生死さえわかっていない」といった状況であった(該当愚記事)。一方、ネットで知った。老舎と面識のあった何人かの日本人作家が追悼的な文章を書いている。 開高健「玉、砕ける」水上勉「こおろぎの壷」井上靖「壷」有吉佐和子『有吉佐和子の中国レポート』 (blog ものろぎや・そりてえる 殿; 記事:2010年4月29日 (木) 老舎のことである。開高健の老舎追憶は見つかった。しかし、時間的情報が欠けていた。

そして、水上の老舎回想の文章を読んだ。はじめは、『こおろぎの壺』(該当愚記事)。そして、さらに、『北京の柿。その『北京の柿には老舎の死をどのように水上が知り、遺族に会い、八宝山に墓参したことが記されている。そして、『こほろぎの壺と柿には老舎の夫人である胡青から老舎の家の柿の実とこほろぎの壺が日本に送られてくることまでが書かれている。なお、『こおろぎの壺』『こほろぎの壺と柿では、蟋蟀のひらがな表記が異なっている。

「老舎の死の日本への伝わり方」の疑問は、老舎の死の1年以内に日本に伝わった。老舎の死の詳細は不明だし、確証もなかった。ただし、文革報道と吊し上げに遭った人々の属性を照らし合わせると老舎が受難したと日本では十分推定できたと思われる。その後1965年の来日時の老舎は将来の"迫害"を予言した発言をしたとされる。それが、上記長尾文献の意義でもあるらしい。

上記画像は、昨年秋に北京に行った時の老舎の故居の庭である(関連愚記事;北京参り2013)。この2本の木が水上勉の『北京の柿』に書かれた老舎邸の2本の柿の木である。おいらは、昨年秋『北京の柿』は読んでなかったし、現場でこの木が柿であるとも気づかなかった。というか、何の木であるか気にもとめなかった。ただし、今日、『北京の柿』を読んで、もしこの木が柿であるなからば、昨年秋に北京に行った時に柿の実がなっていたはずだ。それがデジカメ画像には認められないなぁと疑問に思った。

でも、画像を拡大してみた。あったょ、柿の実;



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。