いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「全共闘C」さんが、誰であるかわかった。

2012年11月25日 20時55分41秒 | 日本事情

 

貴重映像 - 50年前の東大生(芥正彦)と三島由紀夫の言葉による決闘 | 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 | Netflix Japan

最近、知ったこと。

三島由紀夫と全共闘の討論会というのがある。伝説となっているが、今では、YouTubeで見れる。

その中で、三島と討論する人たちは、「全共闘A」だの、「全共闘B」だのとラべリングされている。

そして、「全共闘C」さん。

この動画を数年前初めて見た。この動画の中で、三島と話す人の中でとても目立っていた。

言いたいことのひとつは、「自分は異邦人」ということらしい。

ぬっぽんずんであることが嫌なのだ。

この動画を初めて見た数年前、全共闘だった人たち、そして、この人は今頃どうやって暮らしているのだろうと思った。

ぬっぽんなんて、まぬけだろう! 国境なんて、くそくらえ!、国籍なんて、犬のえさにしてしまえ!という意気込みの"お兄ちゃん"(当時!)。 そんな彼はどうしているのだろう?と、思った。

もちろん、「この人は今頃どうやって暮らしているのだろうか?」という疑問はただの興味本位だった。

21世紀の今となっては、どこかの"国際旅団"にでもいて、世界のどこかで、ぬっぽんなんてすっかり忘れて、元気にしているのだろうか?と夢想した。

案外、 国境なんて、くそくらえ!、国籍なんて、犬のえさにしてしまえ!という本義に則っているグローバル資本の手先となっていたら、むしろ愉快じゃないか!とも妄想した。

夢想や妄想はしたが、その消息を知らなければ、死ぬほどのことにもならないという程度の興味だったので、時期忘れた。

さて、そんな先日、この全共闘Cさんが、誰であるかわかった。

一昨年の夏に、ハイデガー熱が出たと書いた(愚記事; ■ハイデガー熱出る)。

それ以来、ちびちびとハイデガーと関連本を読んでいる。ファシズムとハイデガーの関係、つまり政治問題の線で、ラバルトを眺め始めた。そして、『他者なき思想 ハイデガー問題と日本』という本にたどり着いた。その本の中にあった;

前略)何人かの講師をバリケードの中に招き、私の発案で、今でいう”朝まで生テレビ”的スタイルのコンセプトの授業にしようと、池田大作、大江健三郎、三島由紀夫、宮本顕治等に声をかけたのですが、皆さん御断りになった中で三島氏だけが乗ってこられ、例の討論イヴェント劇『三島由紀夫VS東大全共闘 -美と共同体と東大全共闘』(一九六九年、新潮社)になったのですが、生まれたての長女を抱いて討論参加していたのをTV中継された(後略)
芥正彦 「自己紹介」 (『他者なき思想 ハイデガー問題と日本』、藤原書店、1996年)

「生まれたての長女を抱いて討論参加していた」というくだりで、「あー、全共闘Cさんは、この人かぁ!」とわかった=芥正彦google

 ■ 三島に対し、「自分は日本に放り込まれた異邦人なんだ」みたいなことを言っていた芥正彦さん。三島は、日本人でしかありえない自分を主張。そして、1996年に芥正彦さんは、例えば、こう言う;

日本においては、絶対天皇制ですが、天皇というのはもともと情念コントロールのために、地下にあるもので、皇室用語だとチゲ(地下)というらしい。これは朝鮮の言葉らしんですけれども、明治政府ができたときに、明治天皇のお母さんが、私たちは本来チゲ(地下)のものなのに、地上に出て行って、実用的な権力の道具を動かし始めた。これはとんでもないことになった、とおっしゃった。そしてそれは、その通りになるわけです。  『他者なき思想 ハイデガー問題と日本』

と、皇室を語るわけです。「明治天皇のお母さんが、おっしゃった。 」と尊皇の感情を隠しきれない一面も見えます。「異邦人なんだ」とかいっていたので、パリの裏通りかボンベイの街かどででも暮らしているかと思いきや、日本で皇室に言及し、お元気にお暮らしのようです。もっとも、天皇は外国人だったと言っているので、自分の異邦人性を皇室に見つけ、ビンゴ!となったのでしょうか?つまり、こう言っています;

(ラバルトの『政治という虚構』を読んで、考えたこと) 三島由紀夫のあの超越論的自己殲滅、一人で殲滅キャンプをつくって、虎視眈眈、二十何年かけて実行したという...。そのことを最初に思ったわけです。たしかに、芸術というのは一人分の死をきっちり創造することだったし、そのタナトスは芸術の誘惑でもある訳ですが。あの儀式で、隠蔽されていた日本というものの顔がメディアの背後から、突然発生したと言えるからです。
 さて、なぜ天皇がチゲ(地下)だったかですが、神道というネクロフィリズムの長であるのと、天皇は外国人だったからで、地下に入って自ら内在化する必要もあったし、また、外国人を王とするということは、いつでも他者と出会ったときに内部の一番大事なものを生贄として提出できるというわけで、じっさい、太平洋戦争の終戦儀式でその役割を天皇ヒロヒトは演じた訳です。  『他者なき思想 ハイデガー問題と日本』

↓ このことだ。


話は、飛ぶ。上記神道というネクロフィリズムからの連想;

▼ 神道はネクロフィリズムであるというのは、びっくりした。

神道というより日本文明のネクロフィリズムというのは、思い当たるフシがある。 突然だが、藤田嗣治の『アッツ島玉砕』。

この絵は戦争画であり、なおかつ、殉教を描いた宗教画なのであるという解釈には、なるほどと思った。

 

 

 



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