いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

没百年;2月1日は山縣有朋の命日、あるいは、亡びた国を肇(はじめ)た男

2022年02月01日 13時40分00秒 | 日本事情


明治天皇と山縣有朋

1922年、大正11年、2月1日、午後1時40分、山縣有朋は小田原の古希庵で死ぬ。83歳。100年前の「今頃」だ。

山縣有朋の「肩書」は、枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵、である。

山縣有朋。日本での反政府集団どころか、毛利家においてさえ反体制少数派であった青年暴力集団(指導者;高杉晋作)において、文字通り槍働きからはじめて、藩内闘争、対政府(徳川幕府)戦争、戊辰戦争、西南戦争と日本人」を殺しまくり[1]、大日本帝国を自分でつくり、維持、発展させ、さらには支那とロシアと戦争し、日帝政府、特に陸軍を統括した。1922年に84才で死ぬ。そのわずか23年後、大日本帝国も滅亡する。(愚記事:じゅげむ・じゅげむの弁当箱

[1] 本日、2022/2/1記す。山縣有朋の「初陣」は、下関戦争らしい。壇ノ浦。対軍艦戦なので、敵兵を殺したかは不明。おそらく殺してないだろう。山縣有朋の「初陣」の敵は、毛唐さまだったのだ。なお、山縣有朋は維新功労者で、人種闘争観を持ち、披露している人物である。これは、維新功労者唯一ではないだろうか? 維新功労者は「すべて」、尊王攘夷を捨てた。

■ 亡国の足の速さ

山縣有朋を考えるに、やはり、その死後四半世紀も経たずに、23年で、大日本帝国が亡びたことである。自分が年をとると、20年前なんてつい昨日のように感じる。そんな時間で国があっちゅーまに亡びるなんて、理解が難しい。

山縣有朋を論ずる人は、およそ、昭和の「軍国主義」と山縣有朋との関係に言及し、直接性の有無を検討するそうだ。山縣の死の直前から亡国までの年表は下記のごとく;

1868年 大日本帝国肇国
1911年 辛亥革命
1919年 チャイナ 国民党結党
1920年 宮中重大事件。有朋は色覚異常の遺伝を根拠に裕仁皇太子と久邇宮良子女王との結婚に反対する。
1921年 裕仁皇太子、摂政に(事実上の昭和の始まり)
1922年 有朋死去
1923年 関東大震災
1925年 昭和改元
1926年 蒋介石、北伐開始
1927年 山東出兵
1928年 張作霖爆殺事件
1931年 満州事変
1933年 塘沽協定
1937年 支那事変
1941年 対米英蘭開戦
1945年 大日本帝国滅亡

山縣ら維新功労者の努力の賜物の満州権益と中国権益の取り扱いをうまくできなかったことが、亡国の最初の原因。ただし、米国がこの世になかったら、対チャイナ問題でどんなに失敗しても、大日本帝国は亡びることはなかったであろう。なぜなら、日本の対チャイナ政策に断固と干渉してきたのが米国だからだ。

■ 山縣有朋の晩年の頃の状況

山縣の伝記を読んで興味深いのは、同一人物が競争相手であり味方であることだ。上の山縣以外の全員が山縣にとって味方であり、ライバルである。特に、山縣と原敬の関係は有名な話で、元来政党政治家である原敬が山縣有朋に「戦略的」に接近し、説得し、自分を認めさせたことである。一方、桂太郎は元来山縣直系の政治家であるはずあるが、後年、政党政治家と接近する。これらの力関係(山縣と政党政治との軋轢)を産みだした「原理」は、山縣有朋が「政党政治は国体に反する」と生涯、本気で信じ込んでいたことであった。

元老というのは、事実上天皇に替わって、総理大臣を決める役割である。一方、議会で総理大臣を決める方法が議員内閣制。山縣有朋は元老として自分が内閣総理大臣を決めるものだと信じていたということだ。その根拠は、国体論らしいのだが、つまりは維新の功労者ということだ。精神的・奥羽越列藩同盟敗残者的ひがみ根性でいわせてもらうと、天皇を囲ったものがやりたい放題じゃないか、ということ、なお、山縣有朋は明治天皇と怒鳴りあっていたそうだ。国体論ってなんだ?

■ 反政党政治が亡国へ

山縣有朋の死後の23年での亡国へのいきさつで、象徴的な国家指導者は近衛文麿だ。

なぜなら、近衛文麿は3度の内閣で、支那事変の拡大と戦争終結の拒否(暴支膺懲、国民政府を相手とせず)、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐などの対米戦争不可避へつながる諸策を実施したからだ。

でも、興味深いのが、近衛文麿は政党政治家ではないのだ。その点、山縣有朋のお眼鏡に叶っている。さらには、大政翼賛会という政党政治を否定する議会制度を始めたのだから、ますます。山縣有朋のお眼鏡に叶う。

■ 亡国の近衛内閣を実現させた元老・西園寺公望、
あるいは、足軽が肇め、公卿が亡ぼした大日本帝国

 西園寺公望 [wikipedia]

西園寺公望は近衛文麿に目をかけ日本の指導者にしようとした。もし、元老が西園寺公望が拒否権を発動して近衛文麿を政治家として認めなかったら、すなわち、「英米本位の平和を排す」と主張した近衛をすぐさま見限れば、日本の歴史も変わったものになったであろう。

伊藤博文や山縣有朋ら足軽が肇めた国を亡ぼしたのは、京都の朝廷由来の御貴族さまたちでした。

最期の元老、西園寺公望=国亡族を輩出したから、自らが最後の元老になったんだよね。

■ 山縣有朋関連史跡;記念館と庭

▼ 記念館

愚ブログでの山縣有朋関連史跡の登場は2006年。那須高原の山縣有朋記念館(愚記事)。

▼ 庭

山縣有朋の趣味は庭である。庭道楽。生涯、いくつもの庭園を造っている。現在に残るのが山縣有朋三庭園。おいらは、去年(2021年)、この3庭園を全て訪れた。

1.無鄰菴(京都)

愚記事:京都・無鄰菴再訪 2021年春 ;プロポーザル入札制度のあとさき

2.古希庵(小田原)

愚記事:小田原散歩:古稀庵(山縣有朋 庭園)⇒ 皆春荘 ⇒ 小田原城

3.椿山荘(東京)

愚記事、椿山荘訪問;山縣有朋の庭、東京都文京区関口

 



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