長州参り。長府という街を知らなかった。そもそも、長州は4藩から成るとも知らなかった。萩藩(本藩)、長府藩、清末藩、徳山藩。でも、かつて、このブログを始める前の2002年に2-3か月間山口県で過ごしたことがある。その時に自覚的に行った「長州参り」は萩。もちろん松下村塾にもお参り。その時の画像はこの記事(西のグル、北のグル)で使った。
今回、下関市立歴史博物館というのがあり、何か幕末維新の展示をやっていると知り、調べて長府を認識する。あー、功山寺は聞いたことがある。高杉晋作の解説本にはあの馬上の高杉晋作の像がよく出てくる。
北九州市からは小倉から山陽本線で下関駅までJRで行く。下関駅からはサンデンバスで長府へ。そこは「城下町長府」といって城下町が付くのだ。JR駅の長府とは違う場所と認識する。
1.城下町長府バス停、2.長府藩侍屋敷長屋、3.下関市立歴史博物館、4.茶屋 祥、5.功山寺
■ JR下関駅 → サンデンバス ⇒城下町長府
関門海峡
■ 城下町長府バス停
長府の歴史とともに流れている川で、桜並木に縁取られ、初夏はホタルが舞う静かな川です。侍屋敷は約100m南にあった建物を保存のために移築。仲間部屋の格子窓の造りなど、当時の上級藩士の屋敷の趣をよくとどめています(市指定有形文化財)。(壇具川と長府藩侍屋敷長屋 [google])
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下関市立歴史博物館 web site 海峡に育まれた下関の歴史と文化 -海峡の歴史に未来が見える-
▼ 企画展、幕末群雄伝 ー下関に集まった志士たちー
展示は次の4章に分けられ、時代ごと、維新の過程ごとに、下関に集まった志士の主に書いたもの(書状、揮毫など)を中心に展示。現物そのもの(1次史料)。
1章 立ち上がる志士たちー欧米列強の脅威と日本
2章 逆境に立ち向かうー長州藩の失墜ー
3章 提携を目指してー長州同盟ー
4章 それぞれの志ー大政奉還と新政府の成立ー
大村益次郎、西郷隆盛、平野國臣、楫取泰彦、福田侠平、吉田松陰、三吉慎蔵、木戸孝允、土方久元、坂本龍馬、中岡慎太郎、山縣有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、中山忠光、有川恒縋、福原和勝、熊野直介
〇 中山忠光 [wiki]
東夷という言葉は愚ブログにも出てくる→東夷。でも使用法はお支那さまがわれらを視る目を擬したものだ。つまり、支那人→日本人。今回、初めて東夷という言葉を日本人→日本人で使っていることを知った。
そして、中山忠光は顔だけ知っていて、その生涯は知らなかった。知った。維新後侯爵となる中山家の子。でも、七男。攘夷から担がれ頭となる。まだティーンエイジャーなのに。公家のバカ息子。癇癪持ちだったらしい。よくいえば、スナノヲ的人間か。人格〇常者。まわりの者はもてあました。長州の白石家の日記では「むずかる」(だったとおもう)など気性が幼稚で手に負えない主旨のことが記録されている。そのことが展示されていて、知った。こういう気性なので、最後はなんと長州藩士に殺害される。はたち。攘夷派の内ゲバ、すごいね。
でも、字はうまいんだよね、中山忠光。
中山忠光の「道行」(みちゆき)
道行(みちゆき)、つまり外出の時に着物を汚さない目的で着るコートです。(google)
中山忠光は、1963年の攘夷期限直後の米国船への砲撃に参加していると知る。攻撃を実施した光明寺党の頭。久坂玄瑞が実担当。
〇 山縣有朋
この幟に書かれている文言やその意味などの解説はなかった。どうやら、櫻山神社から最近寄贈されて、研究が進んでないのではないかと感じた。おいらは「霜」しかわからなかった。
過去の展示の図録などを贖う;
■ ⇒ 茶屋 祥
お料理は12品目!
どれから食べょぅー?お行儀悪い迷い箸をしちゃいそぅーでしたょー (まいぷれ下関)
湯豆腐がついていました。御飯がとてもおいしかったです。値段は、1,500円でした。
■ ⇒ 功山寺
先帝祭を知らなかった。先帝=昭和天皇、4/29の昭和の日の祭事かと思った。全然違った。安徳天皇のためのお祭りだった。赤間神社。
青い郵便ポスト。しかも、フグ付き。
■ 功山寺
功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。
仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。 (wiki)
■ 檀具川に沿って、来た道を戻る。
檀具川:周辺の流れを集めて大唐楯山の北側で長府野久留米町などを東北方向に下り、長府川端付近で東に流れを変え、下関市街を経て周防灘に達する。神功皇后が仲哀天皇9年(200年)の三韓征伐の際に壇を築いて祭祀を行ない、使用した道具等をこの川に流したことからこの名がつけられたと伝わる。江戸時代には川岸に多くの米倉が建てられて藩の年貢米を運ぶ船が行き来したと言う。(wiki)
▼ 下関駅