左上から時計回りに、山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎。
■ 118年前の今日、4/21、京都、無鄰菴で山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人が対露関係で会談。元老(伊藤、山縣)と大臣(桂、小村)の会議という「元老政治」を象徴するこの時代の政治的出来事。
無鄰菴の洋館2階の無鄰菴会議の会場となった部屋 (今春の無鄰菴参りにて)
4者で明確な対露方針が合意されたわけではなかった。ましてや、対露開戦決意で合意ということもなかった。
無鄰菴の庭からみた洋館。土蔵のような外見。
■ 無鄰菴と山縣有朋と日清・日露戦争と; サンクトペテルブルグでの戴冠式を挟んで。
1895年 日清戦争、山縣出征:第一司令軍司令官。 2月無鄰菴工事開始
1896年 ニコライ二世の戴冠式に出席(5/26)、山縣ーロバノフ協定。 12月無鄰菴完成
1899年 山縣、首相に。 首相として、8/17-9/14 無鄰菴に滞在。
1902年 日英同盟
1903年 無鄰菴会議 (4/21)
1904年 日露戦争
戦う有朋。
山縣有朋は日清戦争に第一司令軍司令官として出征する一方、庭のためにも戦った;
(1896年12頃完成した無鄰菴は)山形の指揮のもとに、京都の新進気鋭の造園家小川治兵衛(じへえ)が築造した。後年に小川は、「無鄰菴」を造る際は、私は常に呼ばれて「意見を戦はしながらあれ迄に仕上げた」、「無鄰菴」は山形の数ある別荘の中で「最愛」のもので、石と水には最も心を用いていた、と回想している(『京都日出新聞』1922年2月5日)、伊藤之雄、『山形有朋』
■ 山縣有朋も見た! 1896年 ニコライ二世の戴冠式
無鄰菴の完成と日露戦争の間に、山縣はのちの敵国の皇帝の戴冠式に出席している。そして、その臨席での経験がのちの皇室を変えたとの話;
広いプラザがあり堂々たる大通りがあって、後ろに堂々たる建築があるのです。あれには日本人はぜったいいかれるよ。山縣がそれでいかれんたんだから。で、天皇制の儀式が非常に装飾的にぎょうぎょうしくなったのは、山縣がサントペテルブルグに行ってニコライ二世の戴冠式を見て、それで皇帝というのはこうじゃなきゃいかんと思ったからなのです。それからべらぼうに天皇制の儀式がかわるわけです。そしてぼくはその気持ちがわからんじゃないです。 (高坂正堯の発言の一部切り取り、「座談会 外交の芸と術」(1971年)、江藤淳、『アメリカ再訪』より)
ニコライ二世の戴冠式は映像の時代が始まった頃。映像がある;
Coronation of Tsar Nicholas II, 14th May 1896, Russia. Film 11138
■ その後;大日本帝国滅亡まで
▼ 日露戦争(1904年)から山縣有朋が死ぬ1922年まで;
日露戦争後に、山縣はむしろロシアとの協力をすすめ、日露協商関係を築いた。
ニコライ2世(1868-1918)とジョージ5世(1865-1936)、1913年撮影
1918年、ロシア革命でニコライ二世は殺害される。
昭和天皇(1901-1989)(当時、皇太子)とジョージ5世(1921年)
山縣は昭和天皇のお妃候補の良子(ながこ)様(香淳皇后)について色覚異常遺伝問題を理由に反対。
一方、昭和天皇(当時、皇太子)の訪欧を勧奨。昭和天皇は、1921年、ジョージ5世に迎えられる。
▲ 1922年、山縣有朋(1838-1922)死ぬ。
山縣が死んで、敗戦まで23年である。これはわずか23年ではないか!との印象をおいらはもつ。
山縣がはたちの頃、大日本帝国もなく、大日本帝国陸軍もなかった。山縣たちが創った(捏った)のだ。
山縣は死ぬまで、元老として慣習を根拠に政府、陸軍に影響を及ぼし続けられるよう努めた。
その大日本帝国陸軍も山縣の死後23年で無条件降伏、のち解体だ;
▼ まとめ
国破れて、お庭あり。
大日本帝国は消えたが、山縣有朋のお庭、椿山荘、無鄰菴、古希庵は残ったのだ。
お庭は残った!
これでいいのか、ぬっぽん、という感想です。