西部邁の命日に、
関連愚記事;
・西部邁死去2年、3回忌、あるいは、西部自伝への些細な註
・西部邁死去3年;ハーネス(安全帯)とロープをつけて谷筋での繋留死:何處かに行かないように
・西部邁 "インティファーダ"(民衆蜂起)の場所、あるいは、国道の石をぶつけたり、ぶつけられたり
以前の愚記事、反米「保守」の原点:石原慎太郎と西部邁の共通体験;占領軍米兵が家に入り込んできた、に事実誤認があったので、訂正する。この記事で、西部の家に占領軍の米兵が酒をねだりに入りこんで来た話について、晩年の自伝『ファシシタたらんとした者』(2017年)まで公にしていなかったと書いた。これは間違いであった。
雲をつく男のアメリカ兵も滑稽であった。「サーケ」をねだりにきた二人の占領兵に、母がメチルアルコールを差し出したのである。消毒用の工業アルコールが、やはり放出物資として、我が家にあったわけだ。アメリカ兵が鼻も舌もひんまげて帰ったあと、母はクククッと笑っていた。復讐なれり、と思ったのかもしれない。
2015年の『生と死、その非凡なる平凡』の”バラック列島の今昔”に書いてあった。他で書いている可能性は否定できないが、したがって、少なくとも2015年には、西部邁は自宅に占領軍の米兵が酒を求めて入り込んで来た話をしていたのだ。それにしても、一般書の著作を始めて直ぐに、占領軍米兵との経験を書いている当時40歳くらいの西部が、この酒を求めて家に入り込んできた米兵の話を書くのは70歳過ぎてからだということは言えそうである。
■ 今日、気付いたこと;西部の後期の本には欧文タイトルがついている。
今まで気づかなくて、今日、突然気づいたことがある。西部の著作のうち、最近のものは欧文タイトルがついているのだ。ここで欧文タイトルとは言語が必ずしも英語ではないからだ。例えば、上の『生と死、の非凡なる平凡』の欧文タイトルは、Vita et mors, earum mediocritas egregia とラテン語。『文明の敵・民主主義』の欧文タイトルは英語。1983年の『大衆の反逆』には、欧文タイトルは付いていない。
■ おいらが、西部邁を初めて知った時;福田恒存と同時に知った。
おいらが、初めて西部邁を知ったのは1983年11月。10代の頃、戦後体制、すなわち、「平和」と「民主主義」を騙(カタ)る"戦後民主主義"に反感を抱いていた。その時、田中角栄元首相のロッキード裁判の判決が出され、当時最大の政治問題であった。この判決を受けて、世の中を知ってみようよと初めて雑誌『諸君!』を初めて買った。なお、この後『諸君!』が廃刊するまで、在外期間以外、ずっと買い続けてきた[1]。今も全部持っている。
[1] 関連愚記事
・ 諸君!配管だ
・ そうだ、蟲文庫に行こう。『諸君』廃刊記念
ロッキード判決は、上記のように福田恒存が論を書いていた。この時、おいらは福田恒存を知らなかった。のちに西部が福田恒存論を書くことになるのだが。
この雑誌『諸君!』1983年11月号で、西部は「シンポジウム 日本の国家像を求めて」に文章とシンポジウム[2]の発言を載せている。
[2] 今、気付いたが、田中美知太郎(ギリシア哲学研究の大家)とシンポジウム!(ただし、酒なし!)。いうまでもなく、シンポジウムの語源は古典ギリシア語から由来し、「饗宴(夕食後などに行われる酒宴のこと)」。
主張は、初期西部の原則論、すなわち、1980年頃の日本は産業化と民主化が進展し、大衆社会の純粋培養実験の場となっているという日本観。物質的幸福と社会的平等に懐疑をもたないことが許せないという口吻です。ただし、西部の最後期の「日本は米国に従属している」という視点は表だっていない。
まあ、今の若い人が、「物質的幸福と社会的平等に懐疑をもたないことが許せない」とか聞いたら、どう感じるのでしょうか?昔って、ほんと幸せだったのね、と思うのでしょうか?「物質的幸福と社会的平等」にまどろんで、懐疑のひとつもしてみたいと思うのでしょうか?
さて、この1983年の時点で、西部は『大衆への反逆』(文藝春秋社)を刊行している。主張は上記の原則論。ただし、『大衆への反逆』は青土社の『現代思想』に1980年頃書いた文章も多く載せられている。この1980年頃は浅田彰がのちに『構造と力』で単行本化(1983年)される文章が掲載されていた頃だ。『構造と力』には西部邁と青木昌彦の名が3行離れて認められる。
『構造と力』、第二章、3 機械・装置・テクストー二元論からの脱出 p123