草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

不始末続きなのに反権力のポーズに固執するマスコミを嗤う!

2015年04月17日 | マスコミ評

マスコミに自浄作用がないから、国民が怒っているのではないか。それを政党が代弁しても何の問題があるのだろう。政権党の自民党がテレビ朝日やNHKから事情を聞くのが、どうして言論弾圧にあたるのだろう。ニュースステーションで電波をハイジャックされ、元経産省の役人に言いたい放題のことを喋られ、メンツが丸つぶれだったのは誰だったのだろう。やらせ報道が相次いでいるNHKは、ネットでは連日批判にさらされている。にもかかわらず、今夜の民放テレビのニュースだと、自分たちの不手際を棚に上げて、まっとうな報道をしているかのような口ぶりである。マスコミが特定の国や、特定の勢力に頭が上がらないのは事実である。それは政権与党の力よりも強大である。一つ例を上げよう。朝日新聞は一度でも、憲法改正について賛成と反対の両方の意見を紹介したことがあるか。直に朝日新聞の幹部の話を聞くと、憲法を神聖化し、タブーにしているではないか。ビクついているではないか。自分たちの意向に反する投稿文を拒否続けてきたではないか。戦後の言論空間の既得権益に固執してきたのは、日本のマスコミであり、その頂点に立ってきたのが朝日新聞とNHKであった。もう日本の多くの国民は、そんなマスコミを信用しなくなってきている。ネットであらゆる情報を集められるからだ。時代は変わりつつある。マスコミが反権力のポーズにこだわればこだわるほど、国民から信用を失うだろう。そんなことより実際の記事で勝負すればいいのである。それができないくせに、御託を並べてばかりいるのが、今の日本のマスコミなのである。

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国民の総意を天皇意思として表明するのが統治の大権だ!

2015年04月17日 | 思想家

個々の人間において、それまで歩んできた過去を離れて現在がないように、国家においても歴史とか伝統とかが重要な意味をおびている。天皇主権から国民主権とかいった議論がまかり通ってきたのが、戦後の我が国の悲劇であった。それは日本の国体を無視したものであり、断じて容認することはできない。天皇における統治の大権とはいかなるものであるか。それを分かりやすく語ってくれたのが葦津珍彦であった。アカデミズムの意見ではなく、神社本庁とは関係があっても、在野の一思想家であったのは注目される。葦津は統治の大権について、噛んで含めるように述べている。「民族の最高の良心・民族の理想・民族の意志が、天皇の御名によって表明されるということは、日本民族の古くからの信条であった。天皇は、民族の最高の仁義、最高の英知の源泉であると信ぜられている。天皇は民族の良心を表現されねばならないのだから、臣下の全知全能を集め、英知を結集して、その結論を天皇意思として公的に決定なさるのである。ほしいままに独りで考えて、独りでお決めになることはない。この天皇統治の基本的な態度は、古代の詔勅から近代、現代にいたるまで終始して易らない」(「国体問答より」『不二』に掲載)。日本人のエートスを体現されているのが天皇陛下であった。その御意思として日本人は、まとまった国をつくり、幾多の困難を乗り越えて来たのである。分裂は国家の滅亡でしかなく、それは民を犠牲にすることにほかならない。現憲法下であってもその原則は崩れていないが、より明確にする意味での改正が必要なのである。

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