亡くなれば星になるとよく教えられたものです。若くして父が死んだときに、わざわざ指で示してくれた人もいました。あれから肉親が次々とこの世を去りました。天上の星の数ほどではないにしても、夥しい人がいなくなりました。冬空だけになおさら星がはっきりと見え、人の世の儚さを痛感してしまいます。
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亡くなれば星になるとよく教えられたものです。若くして父が死んだときに、わざわざ指で示してくれた人もいました。あれから肉親が次々とこの世を去りました。天上の星の数ほどではないにしても、夥しい人がいなくなりました。冬空だけになおさら星がはっきりと見え、人の世の儚さを痛感してしまいます。
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シールズは志位るずともいわれているが、「アベやめろ」とラップ調で騒ぐのは罵倒でしかない。その同じ言葉を大声で張り上げるだけで、政治は変わるとでも思っているのだろうか。戦後の日本のリベラルや進歩派は、あたかも絶対の真理を語っているかのような傲慢さがあった。わけのわからない若者たちが出現しているのは、その影響がまだまだ残っているからだろう▼藤原保信が『政治理論のパラダイム転換ー世界観と政治ー』で述べているように、本来の政治とはアリストテレスが指摘した実践知(賢慮)なのである。あくまでも政治は人間が行うことである。最善を目指すしかないのである。プロパガンダで一刀両断にすることは、偏った知識を振り回すことでしかなく、実践的な知とは無縁なのである。実践知(賢慮)に蓋然性を含まれる理由について、藤原は「たんに実践の領域が人間の選択意思にかかわり、善の多様性を前提とせざるをえないという消極的理由からではなかった。むしろそれは、すでに述べたように、蓋然的であるがゆえに、他者との対話を通じて確かめられ、よりよきものへとつくり変えられざるをえない性格をもっていたのである。かかる魂の交流こそ共通感覚=常識を育み、固有の意味での政治的空間を可能にするものであったのである」と書いている▼それはヴィーコが説いた常識の大切さとも相通じるものがある。常識は蓋然性から生まれるとしても、真理と虚偽の中間に位置し、ほとんどが真理であり、虚偽は稀であるからだ。自分たちを過信し対話を拒否する政治運動は、日本を混乱させるだけなのである。
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