草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

夫婦同姓規定は合憲との最高裁の判断を断固支持する!

2015年12月16日 | 思想家

日本の国柄を維持するためにも、夫婦の姓は一緒であるべきだ。民法で「夫婦別姓を認めない」と規定していることに対して、違憲性が争われた上告審判決で、最高裁大法廷は今日、「規定は合憲」とする初めての判断を下し、原告側の請求を棄却した▼日本の家族制度は、夫婦がそのベースにある。核家族化したとしても、夫婦が同姓であることで、その子どもたちも同じ名字を受け継ぎことになるからだ。それが夫婦バラバラになってしまえば、家族や夫婦の意味もなくなってしまう。そうでなくても、日本人を結ぶ付けてきた絆は希薄になってきている。それこそ「夫婦相和シ」の精神がなくなれば、日本の根本が揺らぐことになってしまうのである。いかにグローバル化しようとも、日本人の良さや美徳まで失っていいのだろうか▼男女の結びつきは自然の営みのリズムと一体だといわれる。それは個人的なレベルでの問題ではなく、人間の奥深いところから出てくるのである。福田恆存が『人間・この劇的なるもの』で書いていた通りなのである。「断片と化した現代の複雑な社会生活において、まだそこだけは、なんぴとも主役を演じ切れる最後の據りどころ」なのが男女の性なのであり、自然との連続性に注目したのである。結婚という制度こだわらなくても、男は女が生きていくことはできる。人間には弱い者と強い者がおり、一定の歯止めをかけるのが結婚なのである。キリスト教社会の英知であるばかりか、それは日本においても同じなのである。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

 

               ←応援のクリックをお願いいたします。

 

 

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相や行動する保守を批判するサヨクの罵詈雑言は異常だ!

2015年12月16日 | 思想家

「ぱよぱよちーん」もそうであったが、どうして今の日本のサヨクはレベルが低いのだろう。行動する保守の「ヘイト」なるものを批判しながら、それよりもはるかに酷い。どうして対話ができないのだろう。埴谷雄高は「やつは敵である。敵を殺せ。いかなる政治指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった」(「政治のなかの死」)と書いていたが、そこまで考えてのことなのだろうか。政治とは他者の抹殺であるのならば、それは同時に自らにも向けられてくるのである▼スターリンは自らを犯罪者とは思っていなかった。ハンナ・アーレントに言わせれば、それは「旧いタイプ」(『責任と判断』中山元訳)のものであったからである。アレントは「普通の犯罪人と同じように、スターリンは自分の犯罪をも認めることなく、偽善と人を煙にまく言葉で覆い隠していました。そしてスターリンの追従者たちは、これを『善なる』大義の推進のための一時的な手段として正当化したのでした。もう少し巧みな政治家たちは、革命家も歴史の法則にしたがわざるをえないし、必要であればみずからを犠牲に捧げなければならないと主張したのです」と書いている▼スターリンやその追従者は、犯罪を行うにあたっても、それなりの方便を用意したのである。それはブルジョアの道徳かもしれないが、それを無視することはできなかったのである。今の日本のサヨクはそうではない。自分たちの言論を正当化するすべがないのに、罵詈雑言を口にしている。それこそがまさしくファシズムであるのを、どうして理解できないのだろう。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

 

               ←応援のクリックをお願いいたします。

 

 

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪降らぬ半世紀前父逝きし

2015年12月16日 | 俳句

今年は会津盆地も暖冬です。若くして父がこの世を去ったのも、雪のない冬でした。予科練帰りであっただけに、敗戦の日々に馴染めなかったのだと思います。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

 

               ←応援のクリックをお願いいたします。

 

 

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今こそ日本の国柄を取り戻すための憲法改正を!

2015年12月16日 | 思想家

いよいよ日本の政治も正念場を迎えつつある。憲法改正に向けた動きが加速しつつあるからである。そこで重要になってくるのは、何のための改正かということである。それは失われた国柄の回復でなくてはならない。あたかも大日本帝国憲法が天皇主権で、それに対して日本国憲法は国民主権であるというのが定説化している。ともすればそれを受けた形での改正論議が中心になってきた。改正にあたっては元首を明確にするだけではなく、国民主権をどのように考えるかが最大の争点なのである▼小森義峯は『正統憲法復元改正への道標』において、里見岸雄の「日本国憲法の制定者らはマッカーサー以下日本側の者迄、帝国憲法を天皇主権であるとする大誤解の上に立ち、且つ、この主権を天皇から『剥奪』して、国民を主権者に昇格させるという考であった。帝国憲法そのものから見れば、実は滑稽な猿芝居にすぎないのである」との文章を紹介し、「主権ないし統治権は国家に帰属し、天皇は帝国憲法の下で、『元首』であり、『統治権の総攬者』ではあったが、『主権』の所有者ではなかった、とされる里見博士の立場からすれば、けだし、当然の論理上の帰結といえよう」と書いている▼本来であれば大日本帝国憲法を復元し、それを改正するのが王道なのである。そこまではできないとしても、国軍としての自衛隊に、栄誉の大権を誰が与えるかにも密接に結びつくのであり、日本の国柄に根差した議論が行われるべきなのである。

 

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

 

               ←応援のクリックをお願いいたします。

 

 

政治 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする