リアリストであった坂口安吾は『堕落論』において「私は天皇制に就いても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである」と書いた。「あいちトリエンナーレ」で昭和天皇を屈辱した者たちは、そこまで考えたことはないはずだ。多くの国民が大騒ぎすることを予想し、津田大介は時の人になりたかっただけなのである▼安吾の見方は的確である。「社会的に忘れられた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた」。「天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら感じる手段であったのである」とのファクトを安吾は重視したのだ▼津田のような今の日本の自称リベラルは、天皇という存在を抹殺したいのだろう。安吾は天皇制について「そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない」とも述べている。単純に物事を割り切るイデオロギーや裏付けのない願望だけでは、政治は動かないのである。『日本文化史観』の「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ」という安吾の言葉を、私たちは思い起こすべきなのである。
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