保守派ネットを条例で大阪市や川崎市が取り締まることは、民衆の発言を封じようとする者たちに手を貸すことであり、それは結果的に左派やリベラルの言説をも縛ることになるだろう。そこまで考えないで拍手喝さいをする者たちは、自ら墓穴を掘っているのである。簡単に名前を公表し、罰則を与えるようなことがまかり通れば、人々は自らの叫びを口にできなくなるのである。恐るべき未来が待ち構えているような気がしてならない▼まさしくフーコーが問題視した「一望監視方式」というものではないだろうか。監視する者が監視される者から見えないようにして、監視するのである。四六時中常に見られているとの思いから、当然のごとく日々の行動が制約されることになるのだ。「見られずに見る」ということが可能になることで、暴力とは違った権力が行使されるのである▼大阪市の場合などは、「ヘイト」と結論付けた根拠が明かになっていない。それでいて一方的な決定が行われたのである。フーコーが言う権力の行使とは、直接暴力に訴えるのではなく、民衆を一定の方向に導いていくことである。反論や異論を吐くことは御法度である。権力者が「ヘイト」などを口実にして少数派を排除し糾弾するのだ。監視社会が強化されることで、自由な言論は許されなくなるのである。大阪市や川崎市の当局者は、なぜそこまで思いが及ばないのだろう。あまりにも傲慢ではないだろうか。
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2世紀以上も前に書かれたトマス・ジェファーソンの言葉はいまなお有効なだけでなく、おそらく何より真実を言い当てている。(中略)情報を受け取ることでより賢明になると考える愚を犯してはならない。真の知識というものは、疑いを持ち、自分自身で分析することからしか生まれないのだから。実際、情報量が増えれば増えるほど、むしろ無知になるのだ。」(ペドロ・バーニョス)