この世阿弥が完成させた夢幻能(複式夢幻能)というドラマツルギーはあらゆる舞台に対応出来そうです。例えば、先の戦争をテーマとすれば、シテは戦死した兵士になります。また、空襲で亡くなった市井の人でもいいでしょう。そんな能は今も、作られています。舞台は能舞台。他に何も要りません。能舞台でなくても出来そうです。野外でも。この自由度の高さが魅力ですね。この形式を借りて、科白は現代劇でやればいいと僕なんかは思います。こんなことを書いている僕でも、高校の時一度と知人が出ると言うので京都で一度観ただけです。ネットで調べると、現代能樂集野村萬齋のを見つけました。でも、原作は能です。新作をやれば。「それは能じゃない」。声が聞こえてきそうです。能が文化財になるのは怖い! 最後に、「劇では何事かがやってくる。能では何物かがやってくる」ポール・クローデル。この言葉は能の特色を見事に表しています。
以前、私は「能の見える風景」・多田富雄著について書いています。
これで、「世阿弥 私説」は終わります。「補厳寺(ふがんじ)参る 第三話 世阿弥舞う」は近々? 始まります。
以前、私は「能の見える風景」・多田富雄著について書いています。
これで、「世阿弥 私説」は終わります。「補厳寺(ふがんじ)参る 第三話 世阿弥舞う」は近々? 始まります。