もう一つの風景
12
夜の十時、店を閉め、早見家の遅い夕食が始まる。
家族が各々の場所に座り食卓を囲むと、一日の終わりの安らぎの雰囲気が自然と生まれる。
家族の取り留めもないお喋りが行き交う。話題の中心は二人の孫になることが多い。伸子が子供の行儀の悪さを叱る。芳江がそれをとりなす。男二人はいつもの光景に一種の安堵を感じ酒を呑む。
「ごちそうさま」と、孫二人が同時に声を合わせ、直ぐに庄三の横にへばりつく。庄三は酒の肴を両脇の孫の口に順番に箸で運ぶ。伸子は顔をしかめるが、いくら言っても仕方のない事なので黙っている。
「そんなにとったら、おじいちゃんのがなくなるやないか。ええかげんにしとけ」
信也が遠慮がちに口を挟む。
時計が十一時を打つと、伸子の決まり文句が飛び出す。昨日も一昨日も、いや、庄三がそれを意識しだしてから、一言一句違わない台詞だ。
「はよう寝な明日起きられへんよ。はよう歯磨いておしっこ行って。はよう、さっさとしなさい」
その言葉を酒の潮時にして、
「ほな、ご飯にしょうか」と、
庄三は茶碗を芳江の前に突き出す。
「ほんなら、ぼくらも…」
信也が腰を上げかけた時、
「あ、そうや、みんなに言うとかなあかんことあった」
と、庄三は言った。
「私になんの相談もせんと、勝手に話進めて。私はもう気つかうことはいやや」
芳江は語気を荒げた。
信也は二通の釣書を熱心に読んでいる。
「敏子さんはともかく、男の人の方はお父さん会ったこともないんやろ。どちらもそんなによう知らんのに、一寸無責任と違う?」
「せやから、釣書交換して、ちゃんと手続き踏んでるんや。それに房子さんは立派な人や。老人会のだれに聞いてもそう言うわ」
「親が立派でも子が立派とは限らへん」
伸子は向きになって言う。
「私等今まで、何回仲人やりました。もう十分私らの分は返しましたで。それになんやかやと面倒な事もありましたがな。よかれと思てやったのに却って恨まれる。うまくいって当たり前や。もう、私らも年なんやし、堪忍して欲しいわ」
「なんやかやいうて、結局わしのやることは、お前等はなんでも反対なんや」
庄三の煙草を吸う手が小刻みに震えた。昔ならもっと鷹楊に構える事が出来たのに、此の頃は短気になり自分を押さえる事が出来なくなった。それを知っている家族は庄三の興奮が収まるのを黙って待った。
「なんか見たことある顔や、聞いたことある名前や思うたら、彼、僕と中学の同級生ですわ」
信也が手を叩いて言った。
「そういうたら、あなたは、布施のほうやったんや」
伸子も釣書を覗き込んで言う。
「ほう、信也君とも同級生か。これはなんかの縁や。二人とも片親やし、伸子なんかとちごて苦労している境遇もよう似てる。前世から縁があるんかもしれへん」
「うちも苦労してるわ」
伸子がふくれた。
「あほらし、あんた、なにが前世や。いつから仏さん信心にならはりましてん。信也さん、それはそうと、どんな人やった」
「顔知ってる程度ですから、あんまり覚えてへんけど、大人しい奴やったですわ。それに、からはあんまり大きいないけど、走りが速ようて、いつも、選手やったなあ」
「あああ、確かになんか因縁感じるわ。まあ、私らにはあんまり関係ないし、お父さんの好きにしたら」
大きなあくびをして伸子が言った。
いつから、親の家と自分の家とをこんなにはっきりと分けて物を言うようになったんだろう。一つ屋根に住んでいても、間借りしているような気になって淋しさがふと胸をよぎった。
娘夫婦が上にあがってしまうと、居間は急に静けさをました。
「嫁に出した方がかえってよかったかもわからへんなあ」
庄三は呟いた。
「なにを言うたはりますね。贅沢な、今時信也さんみたいな人、そうおらしませんで。私は自分の息子や思てます」
なにを勘違いしているのか、芳江はそう言った。
「ほんなら、わしらもあがろか」
芳江が電気を消すと居間は闇の中に沈んだ。ついいましがたまでこの部屋にあった家族の団欒という幸せは一体なんだったんだろう?川口の後家さんのことが、もしかして本当なら一瞬にして地獄に変わる性質のものかもしれない。房子と敏子が顔を合わせている居間が見えた。ひょっとすると、自分はとんでもないものをつくるために動いているのかもしれない。余計なお世話というような言葉で簡単に逃げることのできないような。
芳江が寝息をたてるのを待って、庄三は枕元の電気スタンドの紐を引いた。
俯せになって煙草を燻らせながら、灯りを見ている。こうして一人でいる時、時々感じる不安が庄三を捉える。年がいったからというのではなく、物心ついた時からあったものだ。
俺が死ぬということは、俺を意識する俺がなくなるということだ。
怖い、たまらなく怖い。近ごろ、朝、新聞を開くと、決まって有名人の死が報道されている。あっちは知らないだろうが、こっちは知っている。写真を見て、この人は、もういないのだ、自分を自分と意識できないのだと思うと、胸の底が締められたような、痺れたような気妙な感覚に襲われる。知識のある頭のいい人は、この無学な酒屋を納得させるような答えを持っているのだろうか?
70年も生きてきて、もう一つ、分からないものがある。それは、女だ。70年という年月が女を理解するのに長いのか、短いのか分からないが、女房さえ、ある部分は謎なんだ。さっき考えたこととも関係があるが、死についても、それを考える現実がきてから、考えればいいというふしがあるように思う。まあ、自分の周りにいる女しか知らないのは確かだが。
誰がいっていたのか忘れたが、男は人生という壷にものを入れるのに生き、女は人生という壷からものを出すのに生きている。
庄三が女を知ったのは、16の時だった。問屋の番頭に、
「庄さん、だんなさんには、内緒やで、ええとこいこ」と、
松島新地に連れて行かれた。
三段腹の女にのって、訳のわからんうちに終わってしまった。
「ぼんも、これで一人前の男や」と、頭を撫でられたが、なんの感慨もなかった。
男が女を理解しているのは、案外、その程度のものかもしれない。三階から微かに、ドラゴンクエストの音楽が聞こえてくる。ファミコンは孫に買ってやったはずなのに、近頃は夫婦が夢中だ。まあ、孫にそんな時間もないのも確かだが。
心地よい眠気を感じる。身体が浮いて、そして、安らかな闇の中に落ちていく。手を伸ばし辛うじて探り当てた枕元の灯りを消す。騒々しかった町も静かになった。町も眠りについたようだ。
To be continued