西郷南洲と勝海舟の会見の地(港区芝4丁目)
新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868年)3月15日と予定されていた。
その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩邸で、二度目は翌14日の田町薩摩蔵屋敷(当地)で行われた(薩摩藩上屋敷は前年末に幕府側によって焼き討ちにされ焼失していた)。
勝は、徳川家が降伏する条件を西郷に提示した。
会談の結果、西郷は江戸総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰って討議することとなった。
そして4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城された。
(2月27日記)
新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868年)3月15日と予定されていた。
その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩邸で、二度目は翌14日の田町薩摩蔵屋敷(当地)で行われた(薩摩藩上屋敷は前年末に幕府側によって焼き討ちにされ焼失していた)。
勝は、徳川家が降伏する条件を西郷に提示した。
会談の結果、西郷は江戸総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰って討議することとなった。
そして4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城された。
(2月27日記)