ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.3.27 心が傷つく時・・・患者の場合

2012-03-27 20:06:38 | 日記
 毎日新聞のネット記事で連載中の「診察室のワルツ」で、先週、気になる記事を見つけた。長くなるのだが、以下転載させて頂く。

※   ※   ※(転載開始)

診察室のワルツ:/21 患者の心が傷つく時=岡本左和子

 今回は患者の心が傷つく時を考えます。治療をはじめ、さまざまな支援が必要な患者と、専門知識を持って患者を支援しようとしている医療者が、互いを傷つける原因はどこにあるのでしょうか。

 私の父ががんを患い、亡くなる時、駆けつけた執刀医が「十分に生きられました」と言いました。父をはじめ家族全員が信頼し、何でも相談してきた医師でしたから、私たちのことを思い、慰めの言葉をかけてくださったのだと思いますが、家族は違和感を持ちました。その言葉が出たのは、まさに父が息を引き取ろうとしている時で、家族もそれぞれに思いがあり、皆が言葉を失って張り詰めた沈黙に包まれていました。それほど長い闘病ではなかったため、私たちには「少しでも長く生きてほしい」という気持ちがあり、その医師の言葉に「何ということを言うのか」と感じました。同じ時期に親を亡くした友人に聞くと、医療者から似たような言葉をかけられた人が多くいました。医療界では、このような言葉は「慰め」として普通なのかもしれません。

 排せつの介助をする際、「くちゃい、くちゃい、いっぱい出たね」「もう終わりましたか」など、大きな声で言ってほしくない言葉を同室の患者にも聞こえるような声で医療者が話す、周りに丸見えで恥ずかしい、大人に幼児言葉を使ってばかにされた気分だ、という患者の声を聞きます。医療者が「患者を励ましたい」「何でもないように振る舞おう」と思いやったはずの言動が、患者の心を傷つけてしまうのです。死生観やプライバシー、個の尊厳など、通常は他人が立ち入らない個人の領域で、医療者の「何とかしてあげたい」という思いが逆効果を生んでいるように感じます。

 思うように身体が動かない、自分ですべきことができないなど、病を持つだけで自尊心を傷つけられがちになる時に、互いの思いがすれ違えば、医療者の思いやりや気遣いは、押しつけとなります。医療者は、患者でも医療者でもない、個としての心と視点を共有することや、その共有を実現するための工夫を考えてみてください。次回は、医療者の心が傷つく時を考えます。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者):毎日新聞 2012年3月21日 東京朝刊

(転載終了) ※   ※   ※

 そう、医療者が私たち患者を傷つけよう、などとは決して思っていないだろうに、なぜこうしたことになるのか・・・と唇を噛む思いだ。私にもそんな経験がある。私は成人しているし、今のところ認知症の症状が出ているわけでもない。だから、病院で、患者という立場になった時に「くちゃい、くちゃい」と言われるような場面はないが、毎週のように針を刺された時に、ちょっと顔をしかめると「あ~、痛いね~、痛いね~」などと幼児言葉を使われることに、とても違和感を覚える。きちんと対等な言葉遣いで接してほしい、と強く思う。もちろん、全ての医療者がそうである、というわけでは、決してない。

 誰しも好きで病院通いをしているわけではない。病院に通うということだけで、気持ちがささくれ立つことがある。健康でない、ということで自尊心が傷つけられているのは事実だ。そんな状況でのこうした言葉は決してお互いを幸せにしない。

 私たち患者がこうした言葉で傷つくのと同様に、私たち患者が医療者の心を知らず知らずのうちに傷つけてしまっていることもあるのだろう。次回の記事…医療者の心が傷つく時…を待ちたいと思う。

 今日は春らしい陽射しの一日だった。今年は春一番が吹かずに終わったけれど、南風と北風は体感温度が全く違う。久しぶりに学内のビュッフェランチに出かけ、木曜日の通院日以来5日ぶりに美味しく食べることが出来た。毎度のことながら、数日間の食欲不振を脱して美味しく食べられることの有難さを思う。

 先週無事学位授与式を終えた娘(?)たちが数名、お茶とお菓子の贈り物を持って窓口を訪れてくれた。4月から進学する者、就職する者、それぞれの旅立ちの春。私もおかげで少し若返った気分だ。若い人たちからパワーをもらえるのはこの職場の醍醐味かもしれない。

 そしてあっという間に明日はまた通院日・・・である。

コメント (3)
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