散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2月18日 トンボ―、冥王星発見(1930年)

2024-02-18 03:43:16 | 日記
2月18日(日)

> 1930年2月18日、アメリカのローウェル天文台の助手クライド・トンボーが、新惑星を発見した。明るさ15等星の小さな星は望遠鏡では見つけることができなかったが、トンボーは時間を置いて同じ空を写した二枚の写真を同時に見る装置(点滅比較計)で膨大な量の写真をチェックし、怪しい星をすべて追跡調査するという方法で、ついにこの新惑星、冥王星を発見した。
 新惑星の発見にこれほど時間と情熱を傾けたのには理由がある。実は彼は、この仕事のためにローウェル天文台に雇われたのだ。ローウェル天文台は、資産家パーシヴァル・ローウェルが火星の観測と新惑星の発見のために造った天文台で、ローウェルは、天王星の軌道のずれから海王星が発見されたのと同じように、海王星の外側にも惑星があるという計算をし、その位置を予測していたのだ。
 ローウェルは念願を果たせぬまま1916年に亡くなったが、後継者によって雇われたトンボーの努力により新惑星は発見され、ローウェルの誕生日である3月13日に冥王星と名づけられたのである。ただ、 ローウェルの予測と実際の冥王星は、 大きさも軌道もかなり違っていた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.54

 トンボ―は聞きなれない名前である。ルーツはどこだろうか、Tombeau と書いてフランス語圏ではあるまいかと推量したが、どうやら北ドイツらしい。’at the creek‘、日本語なら堀端さんというところか。
 
> Americanized form of North German Tombach:: topographic name from to dem bach ‘at the creek’; perhaps a hybrid form as Bach is standard German bek(e) being the Low German form. habitational name from any of the places in Hesse Baden and Bavaria called Dombach (earlier Tunbach from tun tan ‘mud’).
Source: Dictionary of American Family Names 2nd edition, 2022

 そのトンボ―の生涯が、いかにもアメリカらしくて興味深い。

クライド・ウィリアム・トンボー Clyde William Tombaugh
(1906年2月4日 - 1997年1月17日)

> イリノイ州ストリーターの生まれ。高校時代に家族で西カンザスに移り住んだが、農場が雹で壊滅したため大学進学を諦めざるを得なかった。トンボ―は独学で学問を続け、1926年には最初の天体望遠鏡を自作。その後2年間に2基の天体望遠鏡を自作して腕を磨いた。
 これらの望遠鏡で観察した火星と木星の記録を、アリゾナ州フラッグスタッフのローウェル天文台に送ったところ、その力量が認められ天文台に雇われることとなった。そして1930年2月18日に冥王星を発見したのは上述の通り。
 1932年、カンザス大学に入学。1936年に学士号、1939年に修士号を取得した後、再びローウェル天文台に戻った。ローウェル天文台での観測で、トンボ―は数百の変光星、800近い数の小惑星、2個の彗星の他、29,000にも及ぶ銀河を発見している。
 第二次世界大戦中には、1943年から1945年にかけてアリゾナ州立大学でアメリカ海軍に航法を教えた。戦後はローウェル天文台の財政難のため天文台に戻ることができず、1946年からニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル実験場で9年間働いた後、1955年から1973年に引退するまで、ニューメキシコ州ラスクルーセスのニューメキシコ州立大学で教員を務めた。引退後はニューメキシコ州立大学のトンボー基金のため、アメリカとカナダで講演に奔走した。
 1997年1月17日、91歳の誕生日を迎える直前にラスクルーセスの自宅で他界。遺灰の一部は2006年に打ち上げられた太陽系外縁天体探査機ニュー・ホライズンズのコンテナに納められた。コンテナには以下の銘文が刻まれている。

 INTERNED HEREIN ARE REMAINS OF AMERICAN CLYDE W. TOMBAUGH, DISCOVERER OF PLUTO AND THE SOLAR SYSTEM'S 'THIRD ZONE'. ADELLE AND MURON'S BOY, PATRICIA'S HUSBAND, ANNETTE AND ALDEN'S FATHER, ASTRONOMER, TEACHER, PUNSTER, AND FRIEND: CLYDE W. TOMBAUGH (1906-1997)

(訳)ここに納めるは、冥王星および太陽系"第三領域"を発見したアメリカ人、クライド・W・トンボーの遺灰である。 アデルとムーロンの息子、パトリシアの夫、アネットとオールデンの父、天文学者、教師、駄じゃれ好き、そして我らの友、クライド·W·トンボー(1906-1997)。

 なお「遺灰」というからには火葬に付されたのであろうが、これは20世紀末であってもアメリカであたりまえのことではなかった。そのあたりの事情が、わかるなら知りたいものである。

Ω

2月16日 アレクセイ・ナワリヌイ獄中で死亡(2024)

2024-02-17 23:07:13 | 日記
2024年2月17日(土)
 本日のニュースで伝わった。

 
アレクセイ・アナトリエヴィチ・ナワリヌイ Алексе́й Анато́льевич Нава́льный
(1976年6月4日 - 2024年2月16日)

> ロシアの弁護士、政治活動家。米国イェール大学のワールドフェロー。
 2009年以降、ウラジーミル・プーチンやドミートリー・メドヴェージェフへの政権批判活動により国内のメディアで注目を集めた。2014年に「進歩党(Партия Прогресса)」を結成し、党首を務める。政党法に則って合法的に組織を整備していたが、2021年4月29日に解散を発表した。
 2022年の時点で刑務所に収監されていたが、獄中でもSNSを更新し続け、同年7月11日には汚職追及の国際団体設立を発表した。10月4日には、ロシア国外にいると推測される盟友たちが「ナワリヌイ本部」の活動再開をSNSで宣言し、同年のウクライナ侵攻への動員に対する抵抗などを呼び掛けた。
 2023年12月25日、北極圏にあるヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に移送。
 2024年2月16日、同刑務所で死去。

 以上、とりあえず書き留めておく。
 以下、追記。
>  ナワリヌイはもともともともと無神論者であったが、その後、ロシア正教会の信者となった。彼は、正教会に転向したことで、「何か大きな普遍的なものの一部であると感じるようになった」と述べている。

Ω

2月17日 アンリ・デュナンの呼びかけにより「五人委員会」発足(1863)

2024-02-17 03:05:32 | 日記
2024年2月17日(土)

> 1863年2月17日、スイス人アンリ・デュナンの「国際的な救護団体を設立しよう」という呼びかけに応えて、「五人委員会」が発足した。これは現在では赤十字国際委員会と呼ばれ、この日が国際赤十字発足の日とされている。
 デュナンは1828年にジュネーブに生まれた。両親は福祉活動に熱心で、彼も若い時にYMCAの世界同盟作りに参加した。1859年、彼は事業の請願のため、ナポレオン三世に会いに北イタリアのソルフェリーノに行く。当時ナポレオン三世は、イタリア統一戦争に介入してオーストリアと戦闘中であった。デュナンは戦場に放置された死傷者の悲惨な姿を見て、自ら救護活動に参加し、三年後その時の体験を綴った『ソルフェリーノの思い出』を刊行した。
 ソルフェリーノの戦いは、一日で約4万人の死傷者が出たと言われる19世紀最大の激戦で、その様子を書いた『ソルフェリーノの思い出』は大きな反響を呼んだ。その中に書かれた二つの提案、国際的な救護団体と国際的な戦争の協定の必要性が、後に赤十字設立と国際人道法の成立につながったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.53

ジャン=アンリ・デュナン Jean-Henri Dunant
(1828年5月8日 - 1910年10月30日)

 デュナンは1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞した。上記の記す通り、「五人委員会」が発足した2月17日を国際赤十字発足の日とするのは道理であるが、「国際赤十字デー」と呼ばれるのは5月8日、つまり赤十字生みの親であるデュナンの生まれた日の方である。デュナン個人の貢献がいかに大きかったかが窺われる。
 カルヴァンが宗教改革を行ったジュネーヴ、そこに生い立ったデュナンはカルヴァン派の伝統の中で育てられた。その生涯は「福祉活動に熱心なプロテスタント実業家」という類型の傑出した代表である一方、類型では語れない不思議と不可解を抱えている。
 たとえば幼年期、地元名家の長男であったジャン=アンリは、ジュネーブの名門校カルヴァン学校に入学したものの、学業不振により3年で退学し、その後は家庭教師について教養を身につけたとある。ちゃんと身についたのだから、学習能力の問題ではない。エジソンなどと同じく、学校教育に適応できない何かが彼の資質の中にあったのだろう。
 21歳からは銀行員として熱心に仕事をこなす傍ら、キリスト教活動に尽力し、西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家たちと交流を図るようになっていった。英国人ジョージ・ウィリアムズ(1821-1905)の創設したキリスト教青年会(YMCA)に共鳴し、YMCAの国際組織化を夢見つつ「ジュネーブYMCA」を設立したのは1852年、デュナン24歳の時である。
 翌1853年、銀行から仏植民地であるアルジェリアへの出張を命じられ、そこで差別と貧困に苦しむアラブ人やベルベル人の姿を見て衝撃を受けた。思い立つとすぐ行動に移す、直情性と実行力が身上だったらしい。1854年に銀行を退職し、1858年にはアルジェリアで現地人の生活を助けるため、農場と製粉会社の事業を始めた。しかし水利権の許可が下りなかったため事業が上手く行かず、借金が嵩む。1959年にナポレオン3世に会うため、イタリアの戦陣まで出かけていったのは、まさにこの事業への支援を得るためだった。
 ソルフェリーノの戦場で地元女性にまじって救援活動に参加し、その際になぜ敵も味方も分け隔てなく助けるのかと尋ねられ、「人類はみな兄弟」と答えた言葉が後世に記憶されている。
 1862年に『ソルフェリーノの思い出』を出版、1863年にジュネーヴで「国際負傷軍人救護常置委員会(通称5人委員会)」が結成されたのは上述の通り。その後、赤十字の活動は年ごとに成長していく一方で、デュナンの人生は転落に向かう。理事を務めていたジュネーブ信託銀行が1865年に倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから裁判所へ訴えられたことで5人委員会からは辞職を求められる。辞職後、裁判所からは破産宣告を受けた。
 1867年、39歳のデュナンは故郷のジュネーブを去り、そのまま消息を絶った。赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援や、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していったが、当のデュナンはこの活動から身を引いたばかりか、社会そのものから姿を消し、世間からも忘れられていったのである。
 その後、デュナンの姿はパリ、ロンドン、ストラスブールなどで見かけられたが、駅舎で寝泊まりするなど浮浪者同然の生活であった。1876年にシュトゥットガルトの避難所に現れ、牧師宅の2階の屋根裏部屋を貸し与えられたという。
 1887年、健康を損なったデュナンは、スイス東北部のハイデンに現れた。失踪から20年、既に59歳になっていた。ハイデンの赤十字社創設に深く関わり、1892年から死去するまでハイデンの公立病院の一室に居住した。
 1895年、スイス東部の新聞「オスト・シュヴァイツ」の編集者がデュナンを訪ね、彼の書いた記事がシュトゥットガルトの週刊新聞に大きく掲載されると、長い間忘れ去られていたデュナンの功績が再び脚光を浴び、シュツットガルト時代に知遇を得たルドルフ・ミュラー教授の推薦を得て、1901年の第1回ノーベル平和賞受賞につながっていく。
 その後も82歳の死に至るまで、デュナンは質素な生活を貫いた。ほとんど手付かずだった賞金は、遺言によりスイスとノルウェーの赤十字社に寄付された。田中正造がすべてを投げうって鉱毒と戦ったように、デュナンはすべてを投げうって赤十字活動を生み育てたといえる。分からないのは20年間の放浪である。ロンドンからシュツットガルトまで、その移動範囲はほとんど西欧の全域を横断している。なぜそうせねばならなかったのか、何を避け何を求めたのか、またなぜ戻ってきたのか。
 自伝があるらしい。邦訳されているなら読んでみたい。

Ω

2月16日 カストロ、キューバ首相に就任(1959)

2024-02-16 03:39:43 | 日記
2024年2月16日

> 1959年2月16日、キューバの革命家・政治家・弁護士、フィデル・カストロが革命政府の首相に就任した。
 この年の1月1日に、カストロ率いる反政府軍はバチスタ大統領の独裁政権を倒し、バチスタ大統領と首相兼外相グエルはドミニカに逃れていた。翌2日カストロはバチスタの国外逃亡と、ウルチア臨時大統領の就任を宣言し、1月8日にハバナに入った時には独裁政権から解放された民衆が彼を熱狂的に迎えた。以後、キューバは社会主義国家となった。
 カストロがバチスタ政権に対する革命闘争に立ち上がったのは、1953年7月26日、26歳の時である。彼は武装勢力を組織してオリエンテ州モンカダ要塞を襲撃したが、結果は無残な失敗で80人以上の犠牲を出し、自身も逮捕されて懲役15年を宣告された。2年後恩赦で釈放されてメキシコに亡命、その後はアメリカで反バチスタ政権の運動を続けた。
 1956年12月に、秘密裏に仲間と共にキューバに帰国したカストロは、多くの犠牲者を出しつつも、チェ・ゲバラと共にゲリラ戦を展開した。バチスタは大量の政府軍を投入して制圧にあたったが、兵士の多くが軍務を放棄したため、闘争はカストロの勝利に終わった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.52

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス Fidel Alejandro Castro Ruz
(1926年8月13日 - 2016年11月25日)

 武装勢力を組織して要塞を攻撃したとあれば立派な反逆罪で、懲役で済んだのがそもそも不思議である。カトリック司教の仲裁のお蔭だったらしいが、無神論者のカストロがそれを恩に着た気配はさらさらなく、後に権力を奪取してからは教会の破壊をほしいままにした。獄中では読みたい本を読み、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と題した著作まで発刊したあげく、2年足らずで恩赦である。このあたりの事情は記録の字面を辿るだけではわからない。
 メキシコ亡命時代には、バチスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、メキシコ革命の功労者である元大統領ラサロ・カルデナス(1895-1970)の歎願によって釈放されたというから、よほど人を引きつける魅力があったのだろう。
 そんなカストロであるが、キューバ危機の際、フルシチョフがキューバの頭越しにアメリカと手を打ったことからソ連に対する不信感を抱いたものの、1964年にフルシチョフが失脚した後は態度を変え、1968年の「プラハの春」におけるソビエト軍のチェコスロバキア侵攻に対しては理解を示した。このことが盟友チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になったという。カストロとゲバラを、スターリンとトロツキーになぞらえてみたい気が少しする。
 となると次はゲバラに焦点が移るが、これはもうキリがないから後日の宿題。ただ、その名の由来について少しだけ。

エルネスト・ゲバラ Ernesto Guevara
(1928年6月14日 - 1967年10月9日)

 「チェ・ゲバラ Che Guevara」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語など)で「やぁ」「おい」「お前」といった砕けて親しい呼びかけ言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ、エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが面白がって付けたあだ名である。キューバ革命以降、ラテンアメリカで「チェ」もしくは「エル・チェ El Che」といえば彼のことである…
Wikipedia

Ω

2月15日 田中正造、憲政本党を脱退(1900)

2024-02-15 03:59:45 | 日記
2024年2月15日(木)

> 1900年2月15日、栃木県選出の代議士田中正造は、二日前に起こった川俣事件についての質問を議会で行い、演説の途中で所属していた憲政本党を離党した。自分の立場が党派的利害と無関係であることを示すためだった。
 田中は足尾銅山の鉱毒事件に長くかかわっており、鉱毒被害に苦しむ農民と共に、この公害事件と戦ってきた。川俣事件は、 2月13日、被害者の農民一万二千人が東京に中央請願に出かける途上で、待ち構えていた三百人の警察官と憲兵によって力ずくで押さえ込まれたものだ。この事件で農民側は負傷者多数を出し、六十五人が逮捕された。
 足尾銅山は、1610年に開山された日本一の産出量を誇る銅山である。1877年古河財閥が経営に乗り出し、産出量の増加のために近代化を図ったが、多量の硫酸銅を含む排水を渡良瀬(わたらせ)川に垂れ流し続け、渡良瀬川の氾濫のたびにそれが流域の作物すべてを枯らしてしまうという、未曾有の公害事件となった。しかし、当時の政府は、対外輸出のために銅の生産量を確保したいだけでなく、古河財閥に縁のある政治家も多数いたため、田中の執拗な追及にもかかわらず、この問題に正面から取り組むことはなかった。
 この時に田中が述べたのが「民を殺すは国家を殺すなり」の名文句である。田中は71歳で亡くなるまで、この戦いに人生のすべてをつぎ込んだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.51

田中 正造
天保12年11月3日(1841年12月15日) - 大正2年(1913年)9月4日

 こういう人物のあったことが、もっと知られて良い。Wikipedia ぐらいでよいので皆に読んでほしい。1901年、明治天皇に直訴しようとして警官に取り押さえられ、直訴そのものには失敗したものの直訴状の内容は広く知れ渡ったこと、このとき田中は死を覚悟しており、巻き添えにしないよう妻に離縁状を送っていたが、妻の方では離縁などされていないと主張し続けたことなど。
 
 特に注目しておきたいことが二つある。
  • 田中が議会で質問を行い憲政本党から脱退した1900年は、奇しくも精神病者監護法の成立した年である。あるいは同じ議会で可決成立したものだったか。そこに規定された私宅監置の現状をつぶさに調べて報告した呉秀三(こちらはショウゾウならぬシュウゾウ)が遺した言葉、「本邦十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸の外に、この邦に生まれたるの不幸をも重ぬるものと云ふべし」と、上記の「民を殺すは国家を殺すなり」とが、時代を反映して見事に呼応する。はじめ、後者を「民を殺すは国家なり」と読み違えた。心中で田中はそのように叫んでいたのではないか。
  • 1902年、田中は川俣事件の公判の際にアクビしたことを罪に問われ、40日間の重禁固刑に服した。このとき獄中で聖書を読み、その後、死に至るまで聖書を手放すことがなかった。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、亡くなった時は無一文で全財産は信玄袋一つだけ、その中身は書きかけの原稿、『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』の合本であったという。しかし田中は洗礼を受けようなどとはしなかった。ひたすらに、ひたぶるに、イエスの言葉と生涯に自分を重ねて歩き通したのである。
 田中正造、天皇直訴の報を聞き、盛岡中学の生徒であった石川啄木が詠んだ歌が伝わっている。

夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや

Ω