散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

抗うつ薬にあらず

2024-02-14 19:19:56 | 日記
2024年2月14日(水)

> 病院から連絡を受けて警視庁が司法解剖をしたところ、有害な化学物質で、車のエンジンの凍結を防ぐ不凍液などに含まれる成分「エチレングリコール」や抗うつ薬の成分「オランザピン」が検出され、警視庁はこれらを摂取させられた疑いがあるとして捜査を始めました。

***

 下記の通り、オランザピンは薬効分類としては「抗精神病薬、双極性障害治療薬、制吐剤」に該当する。双極性障害の抑うつ症状に対する治療にも使われるものの、「抗うつ薬」と呼ぶのは正しくない。

 報道にあたっては正確を期していただきたい。現に服用している人、これから服用の可能性のある人を混乱させる恐れなしとしない。

Ω


暖かすぎるバレンタインデー

2024-02-14 13:23:47 | 日記
2024年2月14日(水)
 昨日の最高気温は16℃、今日は18℃でしかも風がない。早すぎる春の気配は、嬉しいよりも不気味である。
 昨春どこからかやってきて庭の植木鉢に芽吹き、水もやらずに放っておいたのにぐんぐん伸びて花を咲かせたこの植物は、ベンケイソウというらしい。

   
左:2023年3月20日
右:同年10月23日

 冬とともに枯れたものの、足元に子がいくつも芽生えているのに昨日気づいた。

   
左右とも:2024年2月13日

 その横で、今日はカメが水から出ている。そこここに春の気配。


 ついでのことに、バレンタインデーの由来について:
 そもそも西暦269年2月14日、クラウディウス2世治下のローマにおける迫害に際して、司教ウァレンティヌスが殉教したのを記念するものとされる。ただ、同じ時期に同名の殉教者が他にもあり、それらのイメージが重畳しているらしい。
 クラウディウス2世(在位268-270)は軍人皇帝の一人であり、短い治世に北方の異民族をたびたび破って力を示した。ゴート族をドナウ川から退却させたというので、クラウディウス・ゴティクスなどと呼ばれる。然るに当時ローマの若者の間に厭戦気分があり、その理由が結婚生活への執着にあるとして、兵士たちの結婚を禁止した。ウァレンティヌスはこの禁令に背いて若者たちの結婚式を執り行い、そのために処刑されたと伝えられる。そうしたところから恋人たちの守り手として崇敬を集めるようになったのが、今日のバレンタインデーにつながるらしい。
 クラウディウス2世はこうして若い兵士らの尻を叩き、ヴァンダル族を討つべく勇躍出陣したが、陣中で疫病にかかり270年1月に没した。彼によって前途を阻まれたゴート族が、宿願のドナウ渡河を果たすのは一世紀後の375年、これがゲルマン民族大移動の号砲となる。

Ω

2月14日 バレンタインデーの虐殺(1929年)/ 今年は灰の水曜日

2024-02-14 09:23:08 | 日記
2024年2月14日(水)

 今年のイースターは3月31日、そこから日曜日を除いて40日遡り、今日が灰の水曜日、つまりレント(受難節)初日である。それが聖バレンタインの祝日に重なったのは全くの偶然だが、アル・カポネが凶行をこの日に決行したことに、何かしら意味があったかどうか。おそらく何もありはしなかっただろうが。
 イタリア系のギャングは大半がカトリックで、中には信心深い者も少なからずあったはずである。信心深いことと善良な市民であることとは、常に一致するとは限らない。とりわけ市民道徳の偽善性が強く感じられる条件下では、両者が鋭く対立することすらあり得る。
 
> 1929年2月14日、アメリカのシカゴで、バッグス・モラン一家のギャング七人が、密造酒の取引でおびき出されて虐殺された。犯人はおそらく、彼らと敵対 関係にあったアル・カポネのグループだろうと思われた。
 七人はガレージの壁の前に立たされ、機関銃の乱射によって射殺された。この日カポネはフロリダで司法関係者と会談したりパーティーに出たりしてアリバイがあったが、事件の性格から見て、指示したのはカポネ以外にはありえないと言われている。
 1920年代、アメリカは悪名高き禁酒法時代であった。密造酒の売買はギャングの大きな資金源となり、カポネの所属していたジョニー・トリノのグループも勢力を拡大し、シカゴに拠点を移した後、モラン一家と激しい縄張り抗争を繰り広げていた。
 1925年にトリノが刺客に襲われて重傷を負い引退すると、アル・カポネがボスになった。彼は政治家や官憲を買収して勢力の拡大を図るとともに、犯罪組織の近代化を進め、その地位は揺るぎないものとなった。その一面、生活窮乏者に対する慈善事業を行うなど、マスコミを含めて大衆にも受けが良かった。しかし、政府の威信をかけて特別捜査班アンタッチャブルが組織され、1931年ついにカポネ逮捕に至る。容疑は脱税であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.50


Alphonse Gabriel Capone
アルフォンス・ガブリエル・カポネ
(1899年1月17日 - 1947年1月25日)

 以下、補足情報:
 通称アル・カポネはアメリカ合衆国のギャング。禁酒法時代のシカゴで、高級ホテルを根城に酒の密造・販売・売春業・賭博業の犯罪組織を運営し、機関銃を使った機銃掃射を抗争に用い、多くの死者を出したことでも知られている。一方では、黒人やユダヤ人を差別しなかったとも伝えられる。
(註:凶悪なギャングでありながら、一面では人種や民族による差別を行わなかったという点は、ラッキー=ルチアーノらニューヨークマフィアも同じである。市民道徳と裏町の仁義が対立するというのはたとえばこういうことで、高い理想を掲げてみせながら実際には根強い差別が表社会を支配する現実が、いわゆる暗黒街の何よりの栄養源だった。「禁酒法」はその象徴ともいえる。他所の矛盾は甚だ見やすい。さて今の/今後の日本はどうだろうか。)
 
 1931年の逮捕後の裁判で、アル・カポネは合計11年の懲役と罰金5万ドルの有罪判決を受けた。
 イリノイの刑務所を経て、1932年8月22日にカリフォルニア州サンフランシスコのアルカトラズ刑務所に到着。通常、囚人は列車から船に乗り換えて刑務所に移送されるが、カポネの逃亡及び奪還を恐れた当局は彼を降車させず、客車をはしけに乗せて、直接刑務所まで船でけん引して移送した。
 服役態度は良好で風呂場の掃除係として従順に過ごし、週末には囚人仲間とバンジョーを演奏して楽しんでいたという。しかし、若年時に感染した梅毒が次第に悪化し始める。
 1936年に囚人によるストライキがあったが、アルは参加しなかった。このことで他の囚人から「妻と子を殺してやる」などの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。この子供じみた行動も、梅毒による痴呆症状だが、看守や囚人たちはそれと知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。
 ストライキに参加しなかったことで恨まれたアルは、同年6月23日に散髪所にいたところを、囚人のジェームズ・C・ルーカス(英語版)によって、背後から剃刀で切りつけられた。アルはルーカスを壁に叩きつけて反撃し、ルーカスは独房送りになった。

 その後、アルの梅毒はますます悪化し、心身は衰弱していった。1938年の検査で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は症状の改善を期待してマラリアを接種したが、ほとんど効果は無かった。
 1939年1月にロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移送され、そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。同年10月25日、連邦捜査局捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。彼はこの時の面会について、アルは現実と妄想の区別が付かず、理性を失っていたと感じたという。
 1939年11月16日、アル釈放。判決の11年より短いのは、良好な服役態度によって刑期が短縮されたものか。このときのアルは、クック郡刑務所に入るときの身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人であったという。出所後、アルはボルチモアのユニオン記念病院で梅毒の治療を受け、4か月後にはフロリダの自宅に移った。
 第二次世界大戦が終結する1945年、アルは梅毒治療として、民間人で初めてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果がなかった。
 1947年1月25、脳卒中後の肺炎により死亡。出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴに戻ることはなかったという。

 註を二つほど:
  •  ストライキ不参加やスト破りが深刻な「裏切り」と見なされ、厳しい制裁の対象となることは、日本人の想像を超えている。とりわけイタリア文化圏でこのことが顕著らしいのは、たとえばピエトロ・ジェルミの名作映画『鉄道員』の中のエピソードが鮮明に描くところである。

  •  梅毒治療としてマラリアを接種することは、「マラリア駆梅療法」と称して一般に行われていた。梅毒の病原体 Treponema pallidum は熱に弱いとされていたので、人為的に三日熱マラリアに感染させ、間欠的な高熱によって梅毒を叩き、その後にキニーネなどでマラリアを治療するというものである。「毒をもって毒を制す」とはこのことだが、当然ながら何重にもリスクがあるし、実際どの程度有効だったのか。1917年、オーストリアのヤウレック(1857-1940)が考案して進行麻痺への有効性が示され、1927年度のノーベル生理学・医学賞を授与されたが、まもなくペニシリンによる化学療法にとってかわられた。このあたりの経過は、ポルトガルのエガス・モニス(1874-1955)がロボトミーを考案して1949年のノーベル生理学・医学賞を授与されたものの、その3年後にクロルプロマジンが発明され急速に廃れた経緯とよく似ている。
梅毒トレポネーマの電子顕微鏡像

Ω

ヘンリー vs ハインリヒ、真相判明

2024-02-13 17:08:00 | 言葉について
2024年2月13日(火)

1月25日付の当ブログで、ケストナーの小品から下記の会話を転記した。

「息子のホールバインご存じ?」
「正直言うと、知らんですな!おやじのほうも知らんです」
「ホールバインは有名なドイツの画家なんですよ。長い間ヘンリー八世の宮廷にいたんですの」
「そりゃあ知っとるです」
キュルツは嬉しそうに言った。
「そりゃああれでしょう、裸足で一日雪の中に立ってたやつでしょう」
「ちがうわ、それはヘンリー四世よ」
「しかし、だいたい当たったでしょう?」
「そうね、まあだいたいね。ヘンリー四世はドイツの皇帝で、ヘンリー八世はイギリスの王様なの…」

 キュルツ親方は英国王ヘンリーとドイツ皇帝ハインリヒを混同しているのだが、そもそもトリュープナー嬢は英国王を指して「ヘンリー」と言ったか「ハインリヒ」と言ったかが気になっていたのである。
 本日、真相判明。原文は下記の通り:

"Kennen Sie Holbein den Jüngeren?"
"Wenn ich ehrlich sein soll: nein! Den Älteren auch nicht."
"Holbein der Jüngere war einer der berühmtesten deutschen Maler. Er lebte eine Zeitlang am Hofe Heinrichs VIII."
"Den kenn ich", meinte Külz erfreut. "Das ist der, der einen Tag lang barfuß im Schnee stand."
"Nein, das war Heinrich IV."
"Aber ungefähr hat's gestimmt, was?"
"Ziemlich. Heinrich IV. war deutsher Kaiser, und Heinrich VIII. war König von England..."
"Die verschwundene Miniatur"

 つまり、どちらも Heinrich だったのだ。そりゃそうか、というところだが、このあたりが「近場はかえって不便」だというのである。どれもこれも Heinrich では、ヘンリー8世とハインリヒ4世ばかりかアンリ2世もエンリケ1世も区別がつかず大混乱であろう。こちらは少なくとも、どこの国の王様だか皇帝だかは、名前を聞けばすぐ分かる。
 ただし同種のことはこちら側にもあって、漢字を共有する便利さの反面、それぞれがそれぞれの読み方で読むのでかえって混乱しがちである。たとえば中国人は、「松山」をソンシャンと中国読みする。ソンシャンとマツヤマでは似ても似つかないが、なまじ漢字を共有しているからこういうことが起きるのだ。地名ぐらい日本語に倣えば良いのにと思うが、こちらも習近平(シー・ジンピン?)を「シュウキンペイ」と呼ぶのだから文句は言えない。
 お互い様、そしてこのあたりが言葉の面白さである。


Ω


 

2月13日 ソルジェニーツィン、ソ連追放(1974)

2024-02-13 03:22:51 | 日記
2024年2月13日(火)

> 1974年2月13日、ソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは反体制派知識人として初めて国外追放となり、西ドイツのフランクフルトに到着した。
 ソルジェニーツィンが最初に逮捕され、流刑になったのは、1945年、26歳の時だった。逮捕の理由は、砲兵隊中隊長として従軍中、前線から友人に送った手紙の中に、スターリンを批判した部分があるとされたためだった。欠席裁判で裁かれ、八年間の強制労働の後シベリア追放となったが、1958年フルシチョフによって名誉を回復された。
 1962年に発表した処女作『イワン・デニソーヴィチの一日』は、スターリン時代の収容所を描いて世界的評価を受け、ドストエフスキーの再来と評された。しかし、ソ連国内では国家保安委員会とソ連作家同盟から中傷と迫害を受け、その後の作品『煉獄の中で』『ガン病棟』は、ソ連国内では発表することができず、西側で発表された。国外に出てしまうと市民権を剥奪される可能性があるため、ノーベル賞の授賞式にも出席できなかった。
 1974年2月、今度は国家反逆罪で逮捕され、2月13日に国外退去処分となった。ソビエト連邦崩壊、ゴルバチョフによって市民権が回復され、ソルジェニーツィンが祖国に戻ったのは1994年、追放から20年後のことだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.49

1994年(76歳)ロシアヘの帰還

 アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン Александр Исаевич Солженицын / Alexandr Isaevich Solzhenitsyn
(1918年12月11日 - 2008年8月3日) 

 > ソルジェニーツィンの生涯は、彼の人生を左右した二つの価値観、つまり父譲りの愛国心と、母譲りのキリストへの信仰心に彩られている。愛国者として彼は大祖国戦争に従軍し、国外追放の身であってもロシアの再生を提言した。信仰者としての彼は、ロシアが愛国心の方向を誤った時に断固神の基準に立ち返り、幾多の人生の試練に神への信仰によって立ち向かった。ノーベル文学賞よりも、宗教界のノーベル賞とされるテンプルトン賞が嬉しかったという。ソ連市民権が回復するや、彼は喜んでロシアに帰還した。
Wikipedia

 ソルジェニーツィン追放の報は高校時代の記憶の片隅にうっすらとある。「国外退去」と聞いてむしろ作家のために喜んだ。国内にある限り、いつ命を奪われるか分からない。国外追放となれば、西側とりわけアメリカなどが直ちに保護を加えるのはわかりきっている。ソ連の指導者も不可解なことをすると思ったが、これほどの有名人であればむやみに命や自由を奪うこともままならず、やむなく厄介払いしたのだったか。
 もっとも、追放後のソルジェニーツィンは西側の「自由」を無条件で礼賛したりはしなかった。アメリカに着いて間もなく、アメリカ社会の「自由」が子供にポルノグラフィを見せる「自由」になりさがっていることを、歯に衣着せず指弾した。旧約の預言者の姿をそこに見る。篤信の作家自身、自らもって任じるところがあっただろう。
 
 『ガン病棟』の末尾は、こんな不思議な終わり方である。

 汽車は走りつづけ、コストグロートフの長靴は爪先を下にして、通路の上で死体のように揺れていた。
 悪い人が猿の目に煙草の粉を入れた。
 ほんの出来心から……
(小笠原豊樹訳、新潮文庫版)

Ω