散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2月12日 ガーシュイン「 ラプソディ・イン・ブルー」初演(1924年)

2024-02-12 09:56:33 | 日記
2024年2月12日(月)

> 1924年2月12日、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュインは、リンカーン大統領生誕記念日にエオリアン・ホールで「ラプソディ・イン・ブルー」を初演した。
 「近代音楽の試みの夕べ」と名づけられたその演奏会は、ポール・ホワイトマンによって企画されたものだった。聴衆の中には作曲家ストラヴィンスキーやヴァイオリニストのハイフェッツをはじめ、名だたる音楽評論家もいた。
 ガーシュインはその時弱冠25歳で 、流行歌の作曲家としてヒットを飛ばしていた。ホワイトマンはガーシュインの才能を信じてこの演奏会を企画したのだが、クラシックの批評家の中には、彼らを嘲笑する雰囲気もあった。
 しかし、ガーシュイン自身のピアノで「ラプソディ・イン・ブルー」が演奏されると聴衆は雷に打たれたように静まり、感動が会場を満たした。パレ・ロワイヤル・オーケストラの指揮をしていたホワイトマンも、曲の途中で感動のあまり涙が溢れたという。
 「ラプソディ・イン・ブルー」えでガーシュインは、「人種のるつぼ」と言われたアメリカのさまざまな民族の音楽を融合させ、まったく新しい音楽を作り出したのだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.48



 George Gershwin(1898 - 1937)、本名 ジェイコブ・ガーショウィッツ(Jacob Gershowitz)。名前から推測される通りルーツは東欧系ユダヤ人、父親はロシア、母親はベラルーシからの移民だそうである。
 ニューヨーク、ブルックリンの生まれ。「少年期はいわゆる不良少年」とWikiにあるのは既出のルイ・アームストロングやベーブ・ルースも同じで、不良と呼ばれるような少年でないと、クリエイティヴな大人にはなれないかのようである。
 「ジャズなどのポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍し、アメリカ音楽を作り上げた作曲家」というのだから大したものだが、この種の音楽への感受性が自分に欠けているらしく、バーンスタインの名演奏で聞いても残念ながらさほどの感動を覚えない。

 それより、不世出のこの音楽家が短命であったことに心が痛む。脳腫瘍の中でもとりわけ厄介な膠芽腫(glioblastoma multiforme)に冒され、これによる側頭葉てんかんに30代半ば以降は悩まされ続けた。それにもかかわらず、ミュージカル50曲、歌曲500曲ものを作品を遺しているあたり、35歳で他界したモーツァルト(1756-91)と比較してみたいほどの驚くべきライフタイム・パフォーマンスである。

Ω

2月11日 ネルソン・マンデラ釈放(1990年)

2024-02-11 03:28:52 | 日記
2024年2月11日(日)

 この日の特記事項として「建国記念」を挙げないと、昔だったら厳罰ものだったことだろう。中には「信仰の自由を守る日」と呼ぶ人々もある、そのような歴史的いわく付きの国民の祝日。

> 1990年2月11日、南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者、ネルソン・マンデラは28年ぶりに釈放されて自由の身となった。
 政府の人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対し逮捕されたのは1962年、マンデラが44歳の時のことだった。二年後、彼は国家反逆罪で終身刑の判決を受け、ロベン島に収監された。ロベン島はケープタウンから12キロ沖合の小さな島で、十七世紀末から刑務所として、またハンセン病患者の隔離のために使われていた島だ。マンデラは20年間をここで過ごし、その後ケープタウン郊外の刑務所に移された。
 転機が訪れたのは1989年、フレデリック・ウィレム・デクラークが大統領に就任してからだった。民主改革路線でアパルトヘイト廃止の方向を模索していたデクラーク大統領は、1989年12月に獄中のマンデラと会談し、約三か月後に彼を釈放した。この時、マンデラはすでに71歳になっていた。
 マンデラは釈放後、デクラーク大統領と協力して民主南アフリカ会議を開き、アパルトヘイトの撤廃に向けて憲法を改正し、1994年、南ア史上初めての全人種参加による選挙で、大統領に選ばれた。1993年、マンデラはデクラークと共にノーベル平和賞を受賞している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.47

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ
コーサ語: Nelson Rolihlahla Mandela [xolíɬaɬa mandɛ̂ːla]、
(1918 - 2013)

 穏やかな、それでいて毅然とした、とても好い顔である。こんな風になりたい、せめてこんな顔をした指導者を仰ぎたい。
 ミドルネームのホリシャシャはコーサ語で「トラブルメーカー」の意味だそうだ。いったい、誕生の時につけられた名前なのだろうか。メソジスト教会で洗礼を受けたクリスチャンであり、そこでの教育に多くを負うているという。
 「基本的には非暴力主義を唱えており、平和主義的な考えはたびたび表明していたが、ウムコントゥ・ウェ・シズウェ(「民族の槍」を意味する軍事組織)の創設からもわかるとおり一時武装闘争路線に傾き、解放後もしばらくは武装闘争路線を否定してはいなかった」と Wikipedia にある。南アフリカはガンジーが人種差別の現実に初めて直面した土地でもあった。
 非暴力と暴力についてのマンデラの言葉に、じっくり耳を傾けてみたい。

Ω

 

2月10日 ラフカディオ・ハーン、小泉八雲となる(1896年)

2024-02-10 22:26:30 | 日記
2024年2月10日(土) 

> 1896年(明治29年)2月10日、かねてより日本に帰化することを希望していたラフカディオ・ハーンは、手続きの完了によって日本国籍を取得した。ハーンは妻節子の実家である小泉家に入籍し、小泉八雲となった。
 イギリス人の父とギリシャ人の母の間に生まれたハーンは、アメリカでジャーナリストとしての第一歩を踏み出した。文筆の才能は、二十代半ばで記者として花開いた。しかし、下宿先の料理人であった白人と黒人の混血女性と結婚したことで、彼の人生は一転した。当時のアメリカ社会では法律的に認められない結婚であることから、ハーンは職を失い、結局は結婚生活も破綻して、失意のうちにアメリカを去るのである。
 日本に来たのは1890年4月4日、39歳の時であった。ハーパース・マガジンの記者として来日したのだが、雇用条件が一緒に来た挿絵画家より悪いことに腹を立てて契約を破棄し、そのまま日本で教職の道を選んだ。
 ハーンにとって職を得、しかも妻となる節子と出会った松江は特別に愛着のある土地だった。日本への帰化については、ニューオーリンズの知人へ送った節子との結婚を知らせる手紙の中に書かれている。実際に帰化したのはその六年後だが、最初の結婚の失敗から、法律的にも完全な形で新妻を幸せにしたいと考えたようだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.46


 ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲(1850-1904)については、既に何度も触れている。昭和40年から43年にかけて松江に住み、徒歩の距離に小泉八雲記念館および旧居があったからである。居宅は今日では一般開放されていないらしく、四季折々の自然が楽しめるよう三方に開けた庭など、かつての記憶が今となっては貴重である。
 「おもひはかりと常識と ~ クリスマスにラフカディオハーンのネタ元を知ること」
 https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dfe802bbd13a960d75605ea61566ba10
 「common sense と常識と」
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/66056bac799b9d062e32c23b83c9264a
 などなど

 イギリス人の父とギリシア人の母の間に生まれたのは事実だが、詳細はこのようにさらりとした話ではなかった。父はアイルランド系で、イギリスの軍医としてギリシアのレフカダ島滞在中に地元名士の娘と結婚し、三男子をもうけた。その次男がラフカディオである。父はその後も海外での勤務が続いたため、母親とともに父の実家のあるダブリンに送られた。その後、母は精神を病んでギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。ラフカディオは両親と会う機会の乏しいままに成長し、父方の大叔母に厳格なカトリック文化の中で教育されたため(注:父親自身はプロテスタント)、少年時代にはすっかりキリスト教嫌いになり、ドルイド教に傾倒するようになったという。
 生い立ちにその後の人生を解くカギが読みとれるとするなら、その見事な実例ともいえそうである。以下、Wikipedia から補足。

 1890年、ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行談を聞かされた際に、いかに日本が清潔で美しく、人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞いた。ハーンが生涯を通して憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの言葉に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意したという。一方では、この頃に英訳された古事記を読み、そこに描かれた日本に惹かれたとの説もある。
 来日後は、松江に続いて熊本、神戸、東京に住んだ。1896年、 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。1903年、東京帝国大学退職。後任は夏目漱石であった。1904年、心臓発作により自宅で逝去。享年54歳。
 既出のビゴー(1860-1927)は八雲より10歳年下である。1882年に22歳で来日し、日本人女性と結婚したが1899年に帰仏した。八雲は1990年に40歳で来日し、同じく日本人女性と結婚して1904年に日本で没している。並べてみていろいろと興味深い。

Ω

2月9日 モルガン、バレーボール考案(1895年)

2024-02-09 03:21:24 | 日記
2024年2月9日(金)

> 1895年2月9日、アメリカのマサチューセッツ州ホーリーヨーク市のYMCAで、体育部指導者ウィリアム・G・モルガンが、室内で多くの人が行える球技としてバレーボールを考案した。
 バレーボールの特徴は、比較的コートが小さくてすみ、専用設備も簡単なことだ。当初、ネットはテニスのものを代用し、ボールもバスケットボールなどいくつかの種類で試したという。結局は軽い小型のボールが必要だということになって、専用のボールを作ることになった。
 1896年にスプリングフィールドの体育館で公開ゲームを行ったところ、たいへん評判がよく、全米のYMCAを通じて世界に広まったという。日本では九人制と六人制が行われているが、世界的には六人制が普及しており、オリンピック種目となったのは、1964年東京オリンピックからである。この大会では、「東洋の魔女」の異名をとる日本の女子チームが金メダルに輝いている。
 モルガンがこの球技を考案した背景には、女性の社会参加が盛んになったことがあげられる。モルガン自身それほどスポーツが得意ではなかったらしい。どこでも比較的簡単にできるバレーボールは、多くの人が年齢や性別を超えて楽しめるスポーツとして世界中に普及したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.45


 1964年の東京大会が五輪デビューとは知らなかった。当時は小学校二年生だったが、両親が白黒テレビで女子バレーボールの決勝に見入っていたのを思い出す。強敵ソ連チームには、インナ・リスカルという二十歳のエースがいた。メキシコとミュンヘンで金、モントリオールで東京に続く銀を獲得し、「カスピ海の嵐」と綽名された伝説的なスパイカーである。「ソ連のエース」としか認識していなかったが、アゼルバイジャンの出身で今は同国籍となっている。

https://ameblo.jp/zyunngilove/image-11611656105-12680360183.html より拝借

 対する日本代表は鬼監督・大松博文率いる日紡貝塚単独チームで、柔道の受け身にヒントを得たという回転レシーブに象徴される堅守で競り勝った。優勝を決めた選手たちが大松監督を胴上げする映像が、欧米の視聴者を大いに驚かせたという。当時は欧米も男性優位の時代であり、だからこそ女性に重い荷物など持たせず、力仕事もさせないのが常識であり良識でもあった。女性選手らが男性監督を胴上げする行為は、これに真っ向から抵触したのである。インパクトは思いのほか強かったのではあるまいか。その後の彼我のジェンダー状況は周知の通り。

 大松博文(1921-1978)の経歴について、Wikipedia から転記しつつ辿ってみる。
 香川県綾歌郡宇多津(うたづ)町出身。坂出商業学校から関西学院大学商学部に進学したのち、ニチボー入社。
 1941年(昭和16年)、陸軍に召集され中国・ビルマ・ラバウルを転戦。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に従ってくれるよう、自ら率先して行動をとったという。第31師団に配属されインパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人である。これらの経験が、大松の性格を大きく変えることになった。
 極限までの忍耐にもかかわらず戦争に敗れ、祖国がアメリカに占領支配されたことの屈辱感から、何が何でも勝つことにこだわるようになった。勝敗に関わらず報酬を得ることが目的であるプロと異なり、アマチュアこそは勝利以外に報いも目的もないというのが大松の主張である。「愛好者」に由来する「アマチュア」という言葉に「勝利唯一主義」という特異な意味を託す、異形の指導者が大松だった。この時代、日本人の誰もがそれぞれの形で戦後を戦い続けていたのである。
 2000年、大松は白井貴子・リスカルとともに、アメリカ合衆国のバレーボール殿堂入りを果たした。かつての敵地に不滅の名を刻み、泉下の大松さぞや溜飲を下げたことであろう。


Ω

2月8日 メンデル 遺伝の法則を発表(1865年)

2024-02-08 03:20:20 | 日記
2024年2月8日(木)

> 1865年2月8日と3月8日、チェコのブルノの聖アウグスティノ修道会の修道士グレゴール・ヨハン・メンデル は、エンドウ豆の遺伝の実験結果を、ブルノ自然科学会で 発表した。現在、「メンデルの法則」として知られているものである。
 この法則を導き出すためにメンデルは七年の歳月をかけ、三万本ものエンドウ豆を栽培したという。けれどもこの発表は、当時は出席者に注目されなかった。
 メンデル以前にも形質の遺伝に法則性を見つけようという試みはあったが、 はっきりした法則性は見つからなかった。彼の成功の原因は、はっきり対立した二つの形質をもつエンドウ豆を実験対象に選んだことと、純系と呼ばれる一つの形質しかもたない系統を、何代も交配してつくり出したことにある。
 メンデルの研究は、彼が生きている間は注目されなかったが、死後16年たった1900年、ド・フリース、チェルマク、コレンスという三人の研究者のそれぞれ独立した研究 によって再発見された。彼らはこの分野の研究について過去の記録を調べた結果、35年も前に遺伝の法則が発見されていた事実を見出したのだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.44



 グレゴール・ヨハン・メンデル(独: Gregor Johann Mendel、1822 - 1884)、オーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭、生物学者。

 メンデルは不遇の人、と長らく思い込んでいたが、どうやら大きな勘違いだったようである。修道士としては修道院長の要職に挙げられ、天文・気象・生物など多面にわたる自然科学者として十分評価されていた。なるほど遺伝法則こそ生前に知られることがなかったが、没後に発見・再評価され不朽の名声を遺したこと、人としてこれに勝る栄誉はない。
 せっかくの発見が数学的な表現ゆえに敬遠されたというあたりも、時代を先取りしたものと言えそうだ。今日では数学的センスなくして生物学を語れない。それで思い出すのは木村資生(きむらもとお、1924-94)の分子進化の中立説である。僕の理解が間違っていなければ、たとえば「退化」という現象はこの説によって良く説明される。暗黒環境で暮らすメクラウオにとって目は不要かもしれないが、「目がない方が生存に有利」とまではいえない。それにも関わらずメクラウオが目を失っているのは、適応に無関係な器官において変異が急速に進むことの証左であると。
 これはすごい、日本人でただ一人のダーウィン・メダル受賞者というのもむべなるかなと御著を買い込んでみたが、数学的表現になかなか付いていけないのである。十分わからぬまま、これはノーベル賞に優に値することと密かに期待するところがあった。惜しいかな木村博士、ALSの病魔につかまり満70歳の誕生日に転倒、逝去なさったとある。
 洋ランの一種パフィオペディラム Paphiopedilum の育種家としても知られたそうだから、メンデルとはさぞ話が弾むことだろう。

    


 以下、メンデルについて補足:
> 当時、遺伝現象は知られていたが、遺伝形質は交雑とともに液体のように混じりあっていく(混合遺伝)と考えられていた。メンデルの業績はこれを覆し、遺伝形質は遺伝粒子(後の遺伝子)によって受け継がれるという粒子遺伝を提唱したことである。
 メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは、1847年司祭として修道院の生活を始めた時である。1862年にはブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。 有名なエンドウマメの交配実験は1853年から1868年までの間に修道院の庭で行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があるため、様々な形質や品種があり人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した。そしてエンドウ豆は、花の色が白か赤か、種の表面に皺があるかないかというように対立形質が区別しやすく、さらに、花弁の中に雄しべ・雌しべが存在し花弁のうちで自家受粉するので、他の植物の花粉の影響を受けず純系を保つことができ、また、どう人為交配しても必ず種子が採れ、さらには一世代が短いなどの観察のしやすさを備えていることから使用した。
 次に交配実験に先立って、種商店から入手した 34品種のエンドウマメを2年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代の用語では純系に相当する)ものを最終的に 22品種選び出した。これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった。
 その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても理解していたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で 2n=14であるからである。
 この結果の口頭での発表は1865年にブリュン自然協会で、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは “Versuche über Pflanzen-Hybriden”(植物雑種に関する実験)であった。さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されず、メンデルの考えは「反生物学的」と見なされてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく、結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。
 1868年には人々に推されブルノ修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、毎日の仕事に忙殺され1870年頃には交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB
Ω