童話の世界では、森林は神秘に満ちたカオスの異世界として位置づけられている。妖精やら魔女などが登場し、不思議なことが次から次へと展開される。そして人類も、かつてはこの森林の住人であった。しかし脳の進化とともに森を出て、脳が作り出す合理を御旗に、本能そして神秘とか非合理といったものを排除し、コスモスとしての町をつくり上げることになる。こうして町に住む人間にとって、冒頭で述べたように、森は異世界となる。
この「晩夏光」という季語は、晩夏(夏の終わり)の力を失いつつある光のことである。ただ晩という言葉が、光にもかかって光の暗さ・翳りも意味している。むっとした森の光で、映画が好きな私は、黒澤明監督の「羅生門」のきらめく妖しい光をイメージした。そうした異世界たる森の光に、町の住人が誘われることになる。ただ「誘われて」という言い回しにすることで、二つの解釈が生じる。一つはその異世界たる森を前に畏怖して「誘われて」も、入るべきかどうかためらうというもの。もう一つは、「誘われて」森に入り込み、その後の体験は読み手の想像にゆだねるというものである。
この句に関して、浅学菲才の私の解釈はここまでで、宮沢賢治の深い世界の入り口までもたどり着けなかった。残念なことである。
最後に。前者の解釈の森への畏怖とか感謝の念は、近ごろ元の住人の人類にはなくなってしまった。毎年日本の総面積の1.5倍の森林伐採が地球上で行われ、温暖化の一因にもなっている。森林は、地球の冷却そして二酸化炭素の吸収を担ってきた。それを伐採するのは、自分の首を絞めることなのだが、食糧難による農地拡張ということで伐採は止まない。こうした愚行に、自然の方から多くの警告が発せられている。今回のコロナウイルスもその一つである。森林はこうしたウイルスの宝庫であり、伐採すればまた新たなウイルスが誕生ということになる。また、伊豆山の土砂災害もそうであろう。森や山は、いつの間にか行き場のなくなった産廃・残土の捨て場となってしまった。森や山が「もうやってられない」と突き返したと思えなくもない。私自身も昔のテニス仲間を失うという悲しい災害であったが、こうした森からの光に「誘われて」、現在の森の惨状を知ることも必要ではないか。(鯨児)
(鯨児様 投稿有難うございます。私の句を採り上げていただき恐縮しています)
クサギ(臭木) 臭いのは葉で、花は良い香りがします。
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私は具体的な句会に属したことの無い俳句万年初心者です。インターネット句会にポチポチ投句しているぐらいの
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いふり山麓 という名で投句しています。