日々の覚書

MFCオーナーのブログ

追悼・加藤和彦

2009年10月17日 21時41分12秒 | 時事・社会ネタ

加藤和彦が亡くなった。軽井沢のホテルの部屋で死んでいるのが見つかったとかで、どうも自殺らしいという話。享年62歳。慎んでご冥福をお祈り致します。

しかし、またしてもショッキングなニュースだ。かつて敬愛していたミュージシャンの訃報というだけでもショックなのに、自殺らしいとなれば尚更である。加藤和彦は、近年でも、派手ではないが意欲的な活動を続けていたし、決して行き詰ったりしている様子はなかった。少なくとも、こちらから見ている限り。だが、報道によると、彼は死の直前、友人知人に手紙を送っており、その中に「音楽でやるべきことがなくなった」と書かれていたらしい。ミュージシャンにとって、「音楽でやるべきことがなくなる」というのは、すなわち死を意味する。あくまでミュージシャンとして、だけど。

加藤和彦といえば、多くの人が「帰ってきたヨッパライ」「イムジン河」でお馴染みのフォーク・クルセダーズ、或いは北山修との共作「あの素晴らしい愛をもう一度」を思い出すだろう。けど、僕にとっての加藤和彦といえば、やはりサディスティック・ミカ・バンドであり、『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』と連なるソロでの“ヨーロッパ三部作”である。この時期、すなわち70年代半ばから80年代にかけての時期の加藤和彦は、最も才気走っていた。竹内まりやらへの曲提供、岡林信康などのプロデュース等でも、その才能とセンスを遺憾なく発揮していた。テレビにもよく登場してたし、この頃の日本のロックシーンを、加藤和彦が牽引しているかのような感があった。

加藤和彦はフォーク・クルセダーズ解散後ソロに転じ、その後サディスティック・ミカ・バンドを結成する訳だが、コンセプトはグラム・ロックだったらしい。70年代前半の話で、当時の日本のロック・バンドの大半はハード・ロック或いはブルース・ロックを標榜していた時代に、グラム・ロックをやろうとするなんて、なんたる慧眼。1973年に出たミカ・バンドの1stは、正にキッチュなグラム・ロックを日本流に翻訳したもので、加藤和彦の先鋭的なセンスが光る傑作である。そして、続く『黒船』では、なんとあのクリス・トーマスをプロデューサーに迎えている。あの時代に、外人プロデューサーの下でレコードを作るなんて、画期的を通り越して無謀だったとすら思えるが、結果的に大成功、ミカ・バンドは日本のロックが誇る名盤をモノにするのである。

この後、イギリスへ渡り、ロキシー・ミュージックの前座としてツアーを行なった。日本のバンドの海外進出の先駆でもある。

このサディスティック・ミカ・バンドというバンド名は、当時加藤和彦の妻だったミカの包丁さばきが、あまりにもサディスティックだったことに由来するらしいが、プラスティック・オノ・バンドをもじった名前であるのも間違いない。ミュージシャンではないミカを、強引にステージに立たせた、というエピソードからも、それは察せられる。加藤和彦らしい話ではある。

ミカ・バンド解散後再びソロとなり、数年後“ヨーロッパ三部作”を発表。最初から三部作として制作するつもりではなかったようだが、レコーディング・メンバー全員をバハマ、ベルリン、パリまで連れて行き、全て現地で録音する、という大胆な方法が功を奏し、3枚のアルバムは、それぞれの土地の持つ雰囲気が色濃く反映された傑作となった。この三部作の中では、2番目にあたる1980年の『うたかたのオペラ』が、個人的には一番よく聴いたアルバムであり、一番好きな、忘れえぬ名盤である。歌詞からサウンドから、大戦時(か、もっと前か)のベルリンを再現した虚構性の強い楽曲たちが、とにかく素晴らしい。心情を素直に表現する、というレベルとは明らかに違うフィクションの世界。この人は、やはり何かが違うのだ。

ミュージシャンとして、実に先鋭的な感覚を持つではあったが、いやそういう人だからこそ、と言うべきか、どことなく浮世離れした物を感じさせる人でもあった。ミカ・バンド結成当時、本人はロンドンが好きで、ヒマさえあれば渡英して、あちこち歩き回ったりしてたらしい。グラム・ロックをやろう、というのも、当時のロンドンの空気に惹かれたからなのだろうけど、ミカ・バンドのメンバーたちが、そういうコンセプトを理解出来なかったので、全員をロンドンへ連れて行って、その雰囲気を体感させた、という話を後に聞いて、やはりフツーの感性ではないな、と思った。近年、ミカ・バンドを三度再結成した時も、なかなか曲のアイデアが浮かんでこなかったので、気分転換にロンドンへ行ってきたら、帰国後すぐに何曲か出来たらしい。こういう話を聞くと、遊びか何か分からなくなってくるが、音楽を作る上では、遊びの感覚も大事なので、ま、納得のいく話ではある。フツーの人にはマネ出来ないけどね。

その“ヨーロッパ三部作”以降、僕自身はあまり加藤和彦を聴かなくなっていた。1991年に久々に出たアルバム『ボレロ・カリフォルニア』も聴いたけど、“ヨーロッパ三部作”の延長線上にあるコンセプトではあったものの、その虚構性が却って鼻についたりして、のめり込むまでには至らなかった。1989年と2006年の、サディスティック・ミカ・バンドの再結成アルバムは、よく聴いたけど。

ミュージシャンとして素晴らしい人だったけど、「プロデュースする時、この曲にホーンを入れたい、と言うから、何故だ?と聞くと、カッコいいから、と答える。そんな感覚じゃダメなんだ。ただカッコいいから、ではなく、必然性が感じられなければならない」という発言や、ミカ・バンドの再々結成時の「(キーボードの今井裕が参加してない事を聞かれて)彼とは、ミカ・バンドを解散してからほとんど会ってないし、付き合いもない。だから、呼ぶ必要はないと思った」という発言など、人間的にはちょっと...と思わせる部分もあった。確かに、こっちには関係ないんだけど。でも、“ヨーロッパ三部作”復刻の際、「全く手を加えていない」と言いつつ、実は佐藤奈々子のボーカルをカットしたりなど、相当手を入れてたりもした。なんだかなぁ...

とにもかくにも、またしても、日本の音楽界は偉大な才能を失った。誰よりも先鋭的であったはずの加藤和彦をして、「音楽でやるべきことがなくなった」と言わしめたのは、現在の音楽界の状況とリンクしているのだろうか。彼の感覚が追いつかないほどに、日本のロック界は成熟しているのか。彼は一体、何を思い命を絶ったのか。

今夜は、この曲を聴いて、故人を偲びたい。

ルムバ・アメリカン/加藤和彦

コメント (12)
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