日々の覚書

MFCオーナーのブログ

球史に名を刻むエースたち

2023年06月24日 11時51分48秒 | 時事・社会ネタ

ご存知の方も多いと思うが、元広島東洋カープのエース、北別府学氏が亡くなった。享年65歳。白血病で闘病中だったらしい。まだ若いのに残念だ。謹んでご冥福をお祈り致します。

前にも書いたが、僕が最も熱心にプロ野球を見ていたのが80年代で、この時期は広島の黄金期だったと言ってもいい。実際、1980年から89年の10シーズンで、リーグ優勝3回、日本一には2回輝いている。3回なら大した事ないと思うかもしれないが(パ・リーグだと80年代は西武が6回優勝してるし)、あの常勝ジャイアンツですら、同じ10シーズンでリーグ優勝4回・日本一2回である。ほとんど変わらん。セ・リーグでは、80年代は広島と巨人の2強時代だったと言っても大げさではなかろう。その広島の黄金期を支えたのが北別府だった。

北別府学。1975年のドラフト1位で広島入団。ルーキーの年にプロ初勝利をマーク、1978年のシーズンから11年連続2桁勝利を記録、1982年に20勝、1986年に18勝で最多勝利投手となり、1986年には広島が優勝してMVPにも輝いた。実働19シーズン、毎年勝ち星を記録して通算213勝、文句なしに広島いや球界を代表するエースだった。200勝を達成した時は、最後の200勝投手なんて言われてたっけ。正に記録にも記憶にも残る、素晴らしいピッチャーだったと思う。

中日ファンだった僕からすると、北別府はほんと憎たらしいピッチャーだった。80年代の中日は、毎年のように広島に負け越しており、1984年に広島と優勝争いをしてた時も、広島に勝てなくて優勝出来なかったくらいで、とにかく広島を苦手としていて、そんな広島を象徴するのが北別府だったのだ。マジ中日戦で北別府が打たれた記憶が全然ない。他の試合で見てても、打たれても大崩れせず、大量失点とかまず考えられないピッチャーだった。バッタバッタと三振の山を築くタイプのピッチャーが好みだった当時の僕としては、絶妙のコントロールで勝負する北別府のスタイルはあまり好きではなく、けど打てないので、余計に憎たらしいピッチャーだったのである。今となっては懐かしい。若かったよな、何もかも(意味不明)

押しも押されもせぬ広島のエースだった北別府だが、日本シリーズで活躍した印象が薄い。1984年の日本シリーズは山根投手の方が目立ってた記憶があるし、セ・リーグのMVPになった1986年のシリーズですら、大野とか金石の方が印象に残ってたりする。1991年のシリーズでは、満を持して第3選に先発したが、好投むなしく西武・秋山のソロ・ホームラン一発で負け投手になっていた。大エースだったけど、日本シリーズには縁がなかったのだな。そういう人、案外多いけど。

地方球団ゆえか、実績もあり、実は結構男前であるにもかかわらず、北別府はやや地味な存在であったのは否めない。メディアに積極的に登場していた様子もない。ローカル放送ではそうでもなかったのだろうけど。ここいらは、広島も中日も似たようなもんだな。ただ、北別府学が球史に名を残した偉大なプロ野球選手であった事は、紛れもない事実である。

ところで、偶然にも同じ日に、元中日ドラゴンズの杉下茂氏の訃報も伝えられた。享年97歳。今では、その名を知らない人も多いかもしれないが、かつて中日のエースだった人だ。ただ、前述の北別府とは30歳ほど年齢が違う事からも察せられるように、かなり前の人である。が、ある意味、北別府以上の実績を残した選手と言えるかも。謹んでご冥福をお祈り致します。

杉下茂。1949年に中日ドラゴンズに入団し、一年目のシーズンは8勝に終わるも、翌年からは6年連続で20勝以上を記録(つーか、この6シーズンだけで168勝!)、中日での10シーズンで通算211勝を挙げ、この数字は後に山本昌に破られるまで、50年近くも球団最多記録だった。その後、1959年と1960年の2シーズンは監督兼選手として中日に在籍したが選手としては記録なし、1961年に大毎(現在のロッテ...かな。笑)へ投手コーチとして移籍して、現役復帰して4勝をマークし、生涯通算215勝とした。数字だけなら北別府とほぼ同じ。

杉下と言えば、なんと言っても1954年の中日の初優勝である。この年、杉下は32勝12敗防御率1.39という圧倒的な成績を挙げて投手部門のタイトルを総なめにし、中日の優勝に貢献してMVPを獲得した。その勢いを日本シリーズでも持続し、西鉄ライオンズ相手に7試合中5試合に登板して4試合で完投、3勝1敗の成績で中日を初の日本一に導きシリーズMVPとなった。

現役引退後は、阪神や中日の監督となったが、あまりいい成績は残せなかったようだ。その後、野球解説などやりつつ、1985年に野球殿堂入りしている。僕が中日愛(笑)に目覚めたのは、1974年の中日20年振りの優勝を経験してからだが、その時点で20年前の優勝時のエースが杉下だった訳で、申し訳ないが、当時は名前すら知らないし、もちろんプレーだって見た事はない。思い起こせば1982年、この年中日はリーグ優勝し、日本シリーズで西武と対戦したが、この時のシリーズ第4戦を西武球場まで見に行った事がある。その際購入したパンフレットに、過去の日本シリーズの歴史が第1回から詳しく掲載されていて、それを見て杉下という人は凄いピッチャーだったのだ、と遅まきながらようやく理解した。もっとも、そのパンフレットを見て知ったのだが、1950年代のプロ野球のピッチャーって、凄い人がたくさんいて、稲尾や杉浦は別格だけど、決して杉下だけが凄かった訳ではない。凄い時代だったなぁ、と1982年当時も思ったくらいで、今の感覚だとイメージ出来ないかも。ま、野球自体が違ってたというのもあるけどね。どっちがいいかはともかく。

杉下は、”フォークボールの神様"と言われていたが、実はフォークは1試合完投しても数球しか投げてなかった、とか、学生の頃から野球やってて、それなら肩も強いだろう、と徴兵されてから手榴弾遠投大会みたいなのに指名されて出場したものの、実は野球やってたけど弱肩で、そんな事言えないので、隠れて一所懸命練習してたら肩が強くなった、とか、なかなかに昔の人らしいエピソードの持ち主でもある。

北別府と杉下、正に新旧の大エースの訃報が同時に入ってきたのは、きっと何か意味があるのに違いない。あの頃とは、プロ野球も随分変わってしまった。そして、あの頃を象徴していた名選手たちが次々といなくなっていくのは、本当に寂しいものだ。仕方ないのは十分分かってるけど。

余談だが、ここ何年もプロ野球を以前ほど見てないので、当然、各チームの選手たちも知らない人が多い。世代交代しているので当たり前なのだが、反面、監督は皆知ってる人で現役の姿を見ている人たちばかり。そういうのを見ていると、監督は若返ってる感じはしない。皆さん高齢という感じでもないけどね。調べてみると、僕より年上は2人だけで、あとは60年代生まれが5人、70年代生まれが5人となっている。一番若い人で1977年生まれなので現在46歳。もう少し若い監督がいてもいいのでは、と思ったりする。あの星野仙一だって、初めて中日監督に就任した時は39歳だった。そろそろ80年代生まれの監督が登場してもいいのでは。ま、僕がプロ野球をよく見ていた時期の監督たちも、考えてみれば、当時の自分の父親と同世代と思われる人が多かったけどね^^; それと、昔と比べると、選手寿命が長くなってるような気もするので、指導者が現役引退後の仕事とするなら、若い監督は誕生しにくくなってる、というのはあるかも。

北別府学氏と杉下茂氏、ともにプロ野球の歴史に大きな足跡を残した大投手である。安らかにお眠り下さい。

コメント (2)
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