「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

異説・遠野南部氏(根城八戸)

2005-12-16 15:35:35 | 歴史・民俗
 遠野南部氏(八戸氏)は、甲斐源氏、南部三郎光行公の三男とも六男とも云われる南部実長公を始祖と伝えられる。
 実長公は甲斐国波木井(身延)を領し、波木井六郎実長は日蓮を保護し、広大な山野を寄進し身延山久遠寺の開基と知られている。

日蓮宗総本山身延山久遠寺の南部六郎実長公像

 波木井氏第四代と伝えられる南部師行公は甲州南部宗家から波木井南部家の養子として跡を継ぐも、建武親政では北畠顕家卿の幕下として奥州下向、以降、八戸を中心に南朝方として南北朝を戦い、子孫代々脈々と八戸から下北半島付近までその版図とし、後に宗家盛岡南部家、南部利直公の命により八戸より遠野へ転封、遠野南部家として遠野領主であった・・・・・。
 なお、南部師行公・政長公・信政公・信光公・政光公を勤皇五世としてお祀りすると共に遠野の誇りとしている。


遠野鍋倉城跡・・・勤皇五世の碑

 ということが脈々と数百年語り継がれてきたことでもあります。
 しかし、昨今は南部氏研究も加速傾向、中世文書や近世文書の解読、研究も進み、少なくても南部師行公は波木井南部家を継承したといった形跡は見当たらないという見解が示されております。

こちらも併せてご覧ください    ついでにこちら
 
 このことは、八戸はもちろん遠野でも驚愕する内容ながら、さらにこれら以上に憤慨するだろう異説も存在している。
 未だに遠野の歴史を語る上で、頑なに上記の所伝を引用する先生方、研究者もおられますが、所伝は所伝としながらも、新たなる研究成果にも敏感に反応され、特にインターネット時代、これらも多く活用され、情報収集にも努められて、さらなる研究の発展に寄与していただきたいものと考えます。
 私のような素人、しかも青二才が何を言う・・・これは重々承知ながら、遠野南部氏やら阿曽沼氏関連は、遠野から・・・これが望ましいのではと考えます。

 さて、前置きが長過ぎましたが・・・・・
 「祐清私記」という南部家関連の史書が存在する。
 当然、南部家を研究する上では、有る程度読み下す、研究の対象となる史料でもありますが、私はまだ全文を拝読したことはない。
 この中に、八戸氏の奥州下向のことが書かれている。

 簡略に説明しますと・・・

 八戸氏(遠野南部氏)は、戦国時代に甲州(山梨)から、武田信玄(信虎か)から攻められ壊滅的打撃をうけて八戸へ逃れた。
 八戸は工藤氏が治めていたが、工藤氏が出陣中とも、守兵が少なく防御性が低下していた為、甲州からの一団が城を乗っ取ったとも、工藤氏の客分であったが、娘婿になったともいう・・・いずれ八戸を我物とし、三戸の南部晴政と謁見、八戸工藤氏の旧領を安堵され、八戸氏を名乗り、後に遠野へ村替となったといわれる異説でもあります。
 
 つまり建武親政以来、八戸を主に代々脈々と歴史を刻んだ八戸南部氏は、実は戦国時代に奥州に下向して、工藤氏を乗っ取って領主となった一族というもので、八戸はもちろん遠野でも驚愕、或いは「そんたなごどあるわげねっ」と声が聞こえそうなことでもあります。
 私も初めて聞かされた時は、少し驚いた記憶もございます。
 北奥羽中世史を知る上での一級資料「遠野南部家文書」があるが、これらは遠野南部氏に伝えられた古文書でもありますが、南北朝期のものは、甲州から下向した師行や政長、信光に関わった本物の史料、室町期以降は八戸工藤氏が八戸氏を名乗り、八戸工藤氏に伝えられた本物の史料、後に戦国期に下向した甲州の一団が持っていた史料と合わさったことにより、一家が代々継承してきた古文書であると思われているが、さにあらず・・・・。

 皆さんはどう思われますが、異説は異説だと私も考えますが、全面否定する力は私にはございません。
 いずれこういった説も取り入れながら、さらなる研究調査が必要でもあると思わざるをえません。



八戸氏居舘・八戸根城(八戸市)
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする