「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

379年前

2006-03-12 21:05:25 | 歴史・民俗
 寛永4年(1627)3月12日、八戸から遠野へと村替えとなった八戸弥六郎直義一行が遠野入りした日が379年前の今日ということになります。
 とはいえ、当時は旧暦ですので、実際は一ヶ月後の4月10日(9日)頃ということになると思います。

 寛永4年3月9日、早朝・・午前7時頃、先祖代々の居城である八戸根城を出立、八戸の領民達は三戸境まで八戸主従を見送ったとされ、俗にいう建武年間から寛永4年までの290年余の長きにわたり八戸を治めた八戸氏の最後の姿でもあった。
 後に八戸氏は遠野八戸氏、遠野南部氏となるのである。


 青森県八戸市新井田・新田城跡(新田八幡宮)
 根城八戸氏一族で重臣の新田氏(にいだ)の居城

 昨年秋、新井田祭りが開催、遠野からも市民が参加したようですが、取材に行くつもりが仕事で行けなくなった経緯がございました。
 遠野南部氏の八戸出立の再現パレードが行われたそうです。


 さて、3泊4日の行程、初日は福岡泊(二戸)、二日目は巻堀泊(盛岡市玉山区)・・遠野南部家の飛地だった。
 3日目は佐比内(紫波町佐比内)・・佐比内も飛地。
 4日目はいよいよ新天地遠野入り、上宮守で昼食、夕刻遠野城下、さらに鍋倉城入城となったと伝えられている。

 
遠野さくら祭りでの遠野南部氏入部行列のひとコマ

 3月12日に遠野入りした人員は大よそ50名、二日目の巻堀に着いたのは夜、難所の奥中山峠越えでは一行難儀したとされ、翌朝の出発に支障をきたすほどだったとか、さらに3日目の佐比内泊まりも夜もだいぶ遅くなっての到着、途中の盛岡での宿泊に変更しようという声も多数あったと伝えられますが、予定通り佐比内泊、長旅の、それも徒歩での者達の遠野城下入りは、入部行列での華やかさとはうってかわって、夜になって到着する者達も居て、難儀した様子が伺われる内容でもある。

 盛岡からの遠野街道、しかも遠野城下入りは綾織から下組町へと入るものと思われがちだが、当時は猿ヶ石川に愛宕橋は架けられておらず、通常は綾織砂子沢へ入って、附馬牛東禅寺に出て、駒木を通過しての城下入りだった。
 直義一行を遠野の領民の代表者達が駒木で出迎えして、それから一行も隊伍を整えて入城といわれますが、私が思うに駒木といっても矢崎から松崎、或いは忍峠から松崎に出ての城下入りだったのではと推測もしますが、これは今後の調べで明らかにしたいと思います。

 整然と遠野城下に入ったのは八戸直義他13騎だったといわれている。

 13騎
 新田内匠・作田主水・是川豊前・小笠原大蔵(13歳小姓)・四戸伝内(医師)
 類家勘左衛門・橘甚兵衛・工藤四郎左衛門・長崎藤兵衛・澤里主膳・新田正兵衛・中館兵部少・比巻沢市兵衛(松崎大学・総指揮者)

 皆様のご先祖様の名があるかもしれません・・・。
コメント (2)
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