この春、高校を卒業し浪人生活をしていた長女が盛岡でアルバイトをはじめるということで、引越しやら諸々の手続きで盛岡へ・・・・。
ここ2週間くらいはちょくちょくと盛岡通いが続きそうでもある。
さて盛岡へは国道396号線、その昔は遠野街道といわれたそうですが、その街道沿いの少し気になるもの・・・「ぺっこ(少し)」だけですがご覧ください。
花巻市大迫町・・・天保義民の碑
「宝暦、天明、天保とつづく大飢饉に際し南部領の農民達の窮状は極限に達し、度重なる代官所への年貢減免嘆願も取り合ってもらえず、ついに大迫近郷の村々の農民四千名が決起し一揆となる。農民指導者2名がこの地にて打首獄門とされたそうです」
立福山 鳳仙寺 曹洞宗 遠野大慈寺末寺 紫波郡紫波町佐比内
寛文元年(1661)創建
遠野南部第22代(遠野初代)、八戸直栄(直義)の正室、千代の方が盛岡で死去、当時、遠野南部家の所領であった紫波佐比内において荼毘に付せられ後に火葬の地をこの地に移して一寺を創建した。
後に遠野南部家関連の墓所は遠野へ移された。
境内には遠野南部家墓所跡として石碑が建っている。
紫波町佐比内の古墳か・・・?
以前、遠野発信ブログ管理人さんである「てずからさん」がこのこんもりとした小山は何か・・・とご紹介したことがありましたが、私も以前から少し気になっていたものでもありました。
てずからさんへのコメントは一里塚では・・・と書いたのですが、一里塚にしては大きいこと、またこの先500メートル盛岡寄りには一里塚跡があることから、一里塚ではないだろう・・・ということ、しからば古墳か・・・よく見るとひょうたん型にも見える・・・ということで、昨年、盛岡、紫波在住の史跡探訪仲間に問い合わせてみたが、わからないということ、また紫波のNさんが直接現地を訪ねられ、付近の聞き込み調査を実施、しかし、すぐ後ろの御宅でもなんであるかわからないということ・・・・これは未だに謎だ・・・。
ここ2週間くらいはちょくちょくと盛岡通いが続きそうでもある。
さて盛岡へは国道396号線、その昔は遠野街道といわれたそうですが、その街道沿いの少し気になるもの・・・「ぺっこ(少し)」だけですがご覧ください。
花巻市大迫町・・・天保義民の碑
「宝暦、天明、天保とつづく大飢饉に際し南部領の農民達の窮状は極限に達し、度重なる代官所への年貢減免嘆願も取り合ってもらえず、ついに大迫近郷の村々の農民四千名が決起し一揆となる。農民指導者2名がこの地にて打首獄門とされたそうです」
立福山 鳳仙寺 曹洞宗 遠野大慈寺末寺 紫波郡紫波町佐比内
寛文元年(1661)創建
遠野南部第22代(遠野初代)、八戸直栄(直義)の正室、千代の方が盛岡で死去、当時、遠野南部家の所領であった紫波佐比内において荼毘に付せられ後に火葬の地をこの地に移して一寺を創建した。
後に遠野南部家関連の墓所は遠野へ移された。
境内には遠野南部家墓所跡として石碑が建っている。
紫波町佐比内の古墳か・・・?
以前、遠野発信ブログ管理人さんである「てずからさん」がこのこんもりとした小山は何か・・・とご紹介したことがありましたが、私も以前から少し気になっていたものでもありました。
てずからさんへのコメントは一里塚では・・・と書いたのですが、一里塚にしては大きいこと、またこの先500メートル盛岡寄りには一里塚跡があることから、一里塚ではないだろう・・・ということ、しからば古墳か・・・よく見るとひょうたん型にも見える・・・ということで、昨年、盛岡、紫波在住の史跡探訪仲間に問い合わせてみたが、わからないということ、また紫波のNさんが直接現地を訪ねられ、付近の聞き込み調査を実施、しかし、すぐ後ろの御宅でもなんであるかわからないということ・・・・これは未だに謎だ・・・。