以前にも遠野の菊池姓に関して少し触れたことがございましたが、郷土史関連にての花館(本編サイト松崎じぇんご弐)を妄想的ながらアップした際も、その考察は菊池氏を主に展開させた経緯がございます。
遠野の菊池姓・・・・私も菊池を名乗っておりますが・・・。
遠野では・・菊池姓は馬の糞・・・失礼・・・今時、馬の糞を探そうともそこら辺に落ちているものではない・・・笑・・・また、群衆に向かって小石でも投げれば菊池さんに大当たり・・・違ったらどうするんだ、佐々木さんに当たったらどうするんだっ・・・笑・・・。
ということで、私の歴史関連の調べの中でも菊池姓に関する事柄に迫るということはひとつの懸案事項でもありますし、他の郷土史関連と並行しての調べながら今回、これまた妄想的ながら若干記述したいと思います。
遠野地方における菊池姓の方々が使用する代表的な家紋
「並び鷹羽」「丸に違い鷹羽」・・・並び鷹羽は菊池姓の本家とされる家が使用ということですが、この家紋を使う家は稀であるというか、極少ない。
丸に違い鷹羽は、菊池家の分家が使用といわれるが、総じて遠野ではこちらの家紋を使用している。
まっ、歴史的考察も必要ではありますが、民俗学的な調べも必要であり、一概にこれだっ・・というところまでは行き着いていないのが現実でもあります。
さて、本題・・・・。
伝説めいた内容ながら、菊池一族は九州肥後の名族、菊池氏(熊本県菊池市)が南北朝時代、南朝系の後胤やら公家の子息等を守って奥州下向と伝えられる。
菊池一族の遠野への流入は八戸からとか、江刺からとか・・色々と説も存在するが、奥州市江刺区(旧江刺市)からの流入が今のところその可能性を導きだせる内容も存在し、何よりも江刺もまた遠野並み、いやっ、それ以上の菊池さんが多い土地柄、何かしら関連性はあるものと思っております。
そこで、今回はまだまだ核心に迫る段階に至らずも、江刺関連からの考察を・・・。
江刺の菊池氏といえば角懸(つのかけ)菊池氏、江刺の玉里地区をはじめ、結構江刺氏臣の舘主に菊池氏が居たことが語られている。
その角懸菊池氏関連の系図「和賀立花系・菊池氏系譜」 の存在があるという。
その系図に「武義」なる人物が記されている、没年は応永34年(1427)とされる。
武義・・・菊池武義・・・以前何処かで目にしたような・・・そういえば「近世古文書館」に八戸関連でご教授をいただいたことがありましたが、その際に主宰の工藤先生から、八戸の櫛引八幡宮に奉納されている重文「唐櫃入白糸威肩赤同丸(からびついりしろいとおどしかたあかどうまる)兜、大袖付」の唐櫃に「菊地武義」の名が、おそらく最初に奉納した武将であろうということ・・・の情報をいただいたことがありました。
青森県八戸市 櫛引八幡宮
白糸威肩赤銅丸
唐櫃にある菊地武義・・・池が地との違いはあるが、応永24年7月1日の日付が書き込まれているという・・・。
詳しくは私はわかりませんが、もし八戸での菊地武義なる人物が江刺角懸菊池氏の祖、菊池武義なら・・・・甲冑を奉納した応永24年、没年の応永34年、どこか点で結ばれそうな、そんな考えも成り立つかもしれません。
八戸から江刺へ・・・そして遠野へ・・或いは石巻~遠野~八戸(糠部郡)~江刺~遠野・・・・少し菊池姓の謎解きに自分としての動きがありそうな予感が・・・。
おまけ・・・・気になるもの
かなり以前から凄いなあ・・と思ってました。
スパッと刈り込まれた際は、今にでも海原に漕ぎ出せそうな・・感じ・・。
さらにおまけ・・・
今日のネネ・・・。
今日も日中はいつものポーズでお昼寝・・・。